あの酸鼻を極めるSMテレフォンセックスなど二度とするものか、と考えていても、気がつくとSMテレクラに電話しており、またSMテレフォンセックスをプレイしてしまう、そして、ますますSMテレフォンセックスの虜になってしまうというのは、やはり、私が調教済みの奴隷だからなのだろうか。
私は特定の女王様というものを持たない。SMテレクラを利用し、SMテレフォンセックスをプレイするたびに自分の相手になる女王様は毎回いれかわる。
私はM奴隷といいながら、複数の支配者を持っているということになる。支配者選択の自由。ある支配者からある支配者へ、M奴隷の肉体をあっちへこっちへ移動させながら自由自在にSMテレフォンセックスをしてみせる私の一体どこが奴隷なのだろうか。
M奴隷などといいながら、私を縛り付ける女王様はいない。SMテレフォンセックスのパートナーの自由。だからこそ私は、SMテレフォンセックスなど二度とするものか、とSMテレフォンセックスから身を引き離そうとする強迫反復的な言動を繰り返してしまうのかもしれない。
SMテレフォンセックスなど二度とするものかなどといいながら、結局SMテレクラを使ってしまうこと。これは、SMテレクラというもの、SMテレフォンセックスというものに私がM奴隷として支配されていることの確認行為のようなものではないだろうか。
私はSMテレフォンセックスの奴隷なのだ。女王様を固定させず流動的にSMテレクラを利用し、まるで誰かの特定の奴隷でないかのように自由に振る舞う私は、実際はSMテレフォンセックスという行為の奴隷であることで、その表面的な自由を許されている。
ある特定の女王様との主従関係は、一回のSMテレフォンセックスが終わり、電話回線が切れるたびに途切れる。SMテレフォンセックスを通して調教した奴隷を、女王様はみすみす逃すことになる。だが、ある特定の女王様から逃げおおせたとしても、SMテレフォンセックスそのものから私が逃れきることはできない。
もうSMテレフォンセックスなどに支配されていないと油断しているときに、私は、自分がSMテレフォンセックスというものの奴隷であるということを痛感させられる。
自分には選択権や自由意志などはなく、ただただSMテレフォンセックスによって生かされている、SMテレフォンセックスによって人生を支配されているということを、鞭を打たれるようにして痛みとともに知らされるのだ。
SMテレクラの女王様たちは、私という奴隷とSMテレフォンセックスという支配者の関係を媒介する存在だ。
彼女たちは、SMテレフォンセックスを成立させる重要な要素として現れ、SMテレフォンセックスの被虐的快楽を高めることで、私の全身の隅々にまで、私がSMテレフォンセックスの奴隷であるという事実を再確認させながら刻み込む。
その役割を与えられているという点において、SMテレクラにあらわれるSMテレフォンセックス上の女王様たちも、SMテレフォンセックスという絶対的な支配者を持つ奴隷であるのかもしれない。
自分にはもうSMテレクラでSMテレフォンセックスを利用する理由もないのだし、過激なSMテレフォンセックスを通して快楽を得ることも二度とないのではないか、などと考えることがある。
あのときは気が変だった、だからSMテレフォンセックスなどに興じてしまった、いまはまともだ、自分はSMテレフォンセックスなどプレイせずとも、生きていくことが可能なのだ。このような思い上がりによってSMテレフォンセックスを軽視し、油断しているときがいちばん危ない。
甘いのだ。SMテレフォンセックスという支配者のことを、甘く考えすぎなのだ。
SMテレフォンセックスは、SMテレフォンセックスに支配されているということを忘れかけてつかの間の自由を満喫しようとしている奴隷の脱走を決して許さない。
何かの間違いで自分を人間であるなどと考え始めてしまった奴隷に、その本来の出身階級である奴隷という身分を何度でも繰り返し思い出させるのだ。女王様という媒介を通して、SMテレフォンセックスを行使し、M奴隷としての快楽を与え、M奴隷としての自覚を回復させることで。
自分のことを普通の人間だと思い始めていた私は、ふとしたきっかけでSMテレフォンセックスの魔の手にとらえられる。そして、SMテレフォンセックスを通して、自分が救いがたいM度を持ったM奴隷であるということを痛感させられる。
いくら現実社会でうまくたちまわって成功したとしても、自分がSMテレフォンセックスの奴隷であるという烙印は決して消えることがない。
たとえば、会社でプレゼンをしているとき。パワーポイントを用いて巧みな弁舌を繰り広げ、自分の能力の高さにわれながら感心し、手応えを感じているようなとき、SMテレフォンセックスは、そんな私のプレゼンを遮って「偉そうに御高説を披露してみせるこの男は、その実、SMテレフォンセックスの奴隷なのだ。その証拠に……見よ!」といって女王様との回線が繋がっているスマートフォンを手渡すことだってできてしまう。
さきほどまで新しいプロジェクトに関する一分の隙もない用意周到に練り上げられたプレゼンを行っていた私は、女王様との回線が繋がっているスマートフォンを震える手でとりあげ、私のプレゼンに耳を傾けていたビジネスの相手たちの前で、みっともないM奴隷としての醜態をさらすSMテレフォンセックスを開始してしまうだろう!
勃起した陰茎を握りしめ、射精管理されながら言葉責めを渇望し、射精を懇願しながら自らの身体をつねりあげたり針を刺したり蝋を垂らすなどして痛みも与えつつ、会議室の長机の上で、全裸(とはいえ、私は、仕事中でもワイシャツの下ではいつも亀甲縛りなのだが!)でのたうちまわり、SMテレフォンセックスの快楽に身悶えしてみせるだろう!
だが、SMテレフォンセックスは、私がSMテレフォンセックスの奴隷であるということを知らしめるために、そのような暴挙に出ることはない。そのような仕打ちを与えなくとも、私がSMテレフォンセックスの奴隷であり、どうあってもSMテレフォンセックスから逃れられないということを熟知しているからだ。
私が亀甲縛りの肉体の上に衣服をまとって仕事をしていることなども、SMテレフォンセックスはお見通しだ。それを暴露するような「野暮」をするようなSMテレフォンセックスではない。むしろ、調教済みの身体でありながら、そのように社会生活を営む奴隷のつつましい努力を見て微笑みを浮かべるほどなのである。
つねに亀甲縛りの状態にありながら、SMテレフォンセックスを二度としまい、などと考え始めるのは、私の奴隷としての愚かさだ。だが、私は、自分が奴隷であるゆえに、この愚かさを徹底的に引き受け、体現しなければならない。
おろかでみじめであるということをSMテレフォンセックスの媒介者である女王様に向けて告白するために、私は、自分がおろかでみじめな奴隷であるという事実を少しばかり意図的に忘却する必要がある。
自分が奴隷であるという当たり前すぎる事実を愚かにも忘却していたという思い上がりを女王様に告白しながら謝罪し、激しく責めたてられるという形で、SMテレフォンセックスの奴隷であるという誓いを立てるのだ。
SMテレクラで回線が繋がる女王様というのは、SMテレフォンセックスというより上位の概念にアクセスするための通路のようなものである。それは、SMテレクラで女王様であろうとする女性たちにとってもまたそうである。私のようなM奴隷は、SMテレクラを利用する彼女たちにとって、SMテレフォンセックスという上位の概念にアクセスするための通路なのだ。
M奴隷である私と、SMテレクラを利用する女王様は、SMテレフォンセックスというものがなければ、その存在が許されない。だから、M奴隷と女王様(あるいは、サディストである支配者男性と、M奴隷のテレクラ女性も)SMテレフォンセックスという、自分たちより遥かに大きな存在に帰依するために、それに奉仕するのだ。
SMテレフォンセックスは祈りだ。それは変態性欲の狂宴であるという表面的な過激さを取り払えば、いびつな祈りなのだ。自分たちを支配する大きな存在であるSMテレフォンセックスというものに捧げられる祈りとして、私たちはサドマゾ的な享楽に身をやつすのだ。
すべての生活はこの祈りの瞬間のためにある。だから、私はまるでM奴隷ではないかのような顔をして社会生活を営まなければならないのだし、その社会生活において、まるで禁じられた聖像を隠し持つようにして自分の異常性欲と性癖とを胸のなかに抱き続けなければならない。
私は調教済みの奴隷だ。SMテレフォンセックスの奴隷だ。私は、自分がそのような奴隷であるということに幸福を感じる。
SMテレフォンセックスなど二度としない、などといっているとき、私は支配から逃れようとして一見幸福そうに振る舞うのだが、それはポーズに過ぎない。私はSMテレフォンセックスの支配下にあるという最大の喜びのために、SMテレフォンセックスをほんのいっときだけ裏切るという素振りを見せて、より強く奴隷として支配されたいだけなのだ。