SMテレクラを使ってSMテレフォンセックスを、それも怖気を振るうほどに陳腐でありふれたステレオタイプなSMテレフォンセックスがしたいと思うのだ。
というのも、私がSMテレフォンセックスをするのはこれが最後ということになるだろうか、SMテレクラやSMテレフォンセックスというものと完全に袂を分かち、縁を切った状態で生きる余生に突入するまえに、最後に、自分でも笑ってしまうようないかにもSMテレフォンセックスといった顔をしたSMテレフォンセックスをしてみたいと考えたのである。
こういったSMテレフォンセックスのために必要なのは、SMテレフォンセックスというのを何の考えもなしに行う無邪気なSMテレクラの変態女性であり、そういった無思考の変態女性との回線が繋がることになったならば、私の最後のSMテレフォンセックス、ステレオタイプSMテレフォンセックスは、まず上々のスタートを切ることができるだろう。
相手がSMやSMテレクラやSMテレフォンセックスなどに分析的であったり批評的であったりせずに、ただただ無邪気な変態女性であるならば、その変態女性が女王様であろうが、マゾ奴隷であろうが、SとMの属性は問わない。
私は、自分のSMテレフォンセックスのキャリアの最後を締めくくるにふさわしいステレオタイプSMテレフォンセックスを徹底的に陳腐にプレイできるように、その女性の属性に合わせて、自分の属性を選ぶことになるだろう。
相手が女王様であれば、私はマゾ豚に、相手がマゾ奴隷であれば、私はマゾ奴隷を調教して虐げるサディスティックな法の支配者になる。ただそれだけの話だ。
そして、こういったSMテレフォンセックスをプレイするにあたって、自分が選んだ属性について、プレイ中に思考をするようなことは絶対に避けなければならない。
「マゾヒズム、サディズムとはなにか」ということを、プレイ中に考えたりだとか、「SMテレフォンセックスという声と言葉だけで遂行する特殊な性行為の快楽の可能性はどのように追求し、窮極的な地点まで追い込むことができるか」というような、これまでの私が取り組んできたような営みは、すべて、最後のステレオタイプSMテレフォンセックスからは取り除かれなければならない。
マゾ豚であるならばマゾ豚、サディストであればサディストであるということにただただ充足し、その枠の中で可能なもっとも退屈でありふれた行為をなぞり、およそSMというものを志向するような男女であれば誰でも手に入るようなもっとも簡単な快楽を手に入れることに努めること。これが、私の最後のSMテレフォンセックスにおいては求められるのだ。
定型文を導入することを恐れないこと。むしろ、定型文からはみだすような表現をはじめようとする自分を制御すること。私のSMテレフォンセックスに足りなかったのは、そういった配慮ではなかっただろうか。
SMテレクラというものを利用しはじめてから今日に至るまで、私はこのような簡単なことさえわからないままに、ことを必要以上に複雑にし、なんとか、SMテレフォンセックスという行為を解体し、解体された先からSMテレフォンセックスの快楽の骨子とも言えるものを取り出し、そして、SMテレフォンセックスの新しい地平を見出そうとしていたのだが、そんなことは徒労でしかなかった。
SMテレクラ、および、SMテレフォンセックスにおいては、そのようなことをする必要は一切なかったのである。私は、ついに、SMテレフォンセックスをプレイすることから足を洗おうと決意する瞬間まで、そのことに気づけないほどには愚かだったのだ。
だから、SMテレクラをただただ欲望に忠実に利用し、「これがSMテレフォンセックスですよ」というイメージに安住し、そのイメージからはずれようとするどころか、そのイメージの外側があるということすらも想像せず、ひたすらに与えられた安全なイメージのなかで性的な戯れをし、その性的な戯れを過激なものと勘違いしている平和な変態たちこそが、最初から最後まで正しかったのであり、彼らは何も考えることなく、「与えられたイメージをなぞり過激だと思いこむ」ということにこそ真の快楽があるということを、ほかならない、SMテレフォンセックスの快楽を通して知っていたのである。
SMテレクラ、および、SMテレフォンセックスの快楽を知らないのは、むしろ私のほうなのであった。私はSMテレフォンセックスの快楽を本当には知らないために、陳腐で安易なSMテレフォンセックスのすでに整ったレールのうえに身を横たえそれを丁寧になぞっていくことによってもたらされる快楽から遠ざかっていたのだ。
だからこそ、私は、私自身の全面的に間違った道の終着点において、SMテレクラのSMテレフォンセックスを丁寧になぞることを欲しているのだし、それをなぞりおえることによって、私自身のSMテレフォンセックスをありふれた快楽の渦中へと鎮魂したいと考えているのである。
思えば、SMテレクラを利用しはじめ、SMテレフォンセックスのプレイに耽溺しはじめた始まりのころから、私は何も考えずにSMテレフォンセックスのイメージをそのまま生きることに何の抵抗もないSMテレクラのユーザーたちに憧れを抱いていたのではなかっただろうか。
私も、SMテレクラを利用するにあたってまず自分がSかMかを決定し、その決定された属性を決して裏切ることなく忠実に、自分の役割を果たすことだけに集中している彼らのように振る舞いたかったのではないか。私は彼らに嫉妬していたのではないか。
SMテレクラ、および、SMテレフォンセックスの終局において、私の胸に去来したのは、おおよそ、このような考えであった。だから、私は、私が本当は憧れて嫉妬もしていた彼らのようにSMテレフォンセックスをするという夢を、どうしても叶えたいと考えたのだろう。
もちろん、そういったステレオタイプSMテレフォンセックスをプレイしているときに、「私はいまステレオタイプSMテレフォンセックスをプレイしている」などという一歩引いた目線を持ってしまってはいけない。そういった目線が残存しているうちは、私は、私が憧れ、また、嫉妬もした彼らのようにSMテレフォンセックスをプレイしたとはとてもいえないだろう。
SMテレクラも、SMテレフォンセックスも、次が最後だ、これでSMテレフォンセックスとはおさらばだ、などと決意してのぞんだSMテレフォンセックスでは決して満足できず、また同じような宣言をしてから次のSMテレフォンセックスをプレイしてしまう、ということを私が何度も懲りずに繰り返しているのは、私のなかの「次こそはステレオタイプSMテレフォンセックスをプレイする」という自己意識があまりにも強すぎるからにほかならない。
そして、いまのところ、私はこの自己意識をいかにして消滅させるかという方策が見いだせないでいる。だから、「これっきりだ、これで最後だ」などといった私の次のSMテレフォンセックスも、きっと、次のSMテレフォンセックスへと繋がるものになってしまうだろう。このような予感がある時点で私の失敗はすでに目に見えているのだ。
SMテレフォンセックスと、それも、とびっきり普通のSMテレフォンセックスと自分の境目をなくし、SMテレフォンセックスと自分を同一化させること、私が考えるのではなく、SMテレフォンセックスが考えている、という状態にまで自分を持っていくこと。これを私は望んでいるのであって、それ以外のことはもはや私にとってはどうでもいい。
「私がSMテレフォンセックスをする」のではなく、「SMテレフォンセックスが“私”する」でなければならない。それも「私」という意識が消滅した状態でだ。
果たしてそのような陳腐でありふれたSMテレフォンセックス、SMテレフォンセックスと私を合一化させて溶解させるSMテレフォンセックス、SMテレフォンセックス即私という状態に到達するSMテレフォンセックスが、私に可能なのだろうか。
おそらく、私に欠けているのはSMテレフォンセックスを信じるという態度である。私はまだSMテレフォンセックスを疑っている。SMテレフォンセックスを信じ切っていない。全面的にSMテレフォンセックスのなかに自分を投げ込み、そこに帰依するという勇気を持っていない。
つまるところ、私はSMテレクラを使ってプレイすることが可能なSMテレフォンセックスにおびえている。おびえているから、SMテレフォンセックスのありふれた陳腐なイメージに自分をあてはめ、それをなぞることを回避してしまうのだ。
ここから先は信じる力だけが求められる。最後のSMテレフォンセックスに備えて、私はSMテレフォンセックスという言葉と行為のすべてを信じ、そこに身投げしなければならない。そのような身投げを、私のようなことを考えることなくなんなくこなし、日々SMテレクラのなかでSMテレフォンセックスしている彼らのように、私もなりたいのだし、ならなければならないのだ。