SMテレクラというものに登録してSMテレフォンセックスというものをプレイしてみるまで、わたくしは自分がM男と呼ばれる男性であるということをまるで自覚していなかったのであります。
わたくしの性生活というのは実に慎ましいもので、両手で数えられるほどのリアルセックスの体験もどれもこれもノーマルであり、自分ほど性的に凡庸な男性もいないだろうと考えておりました。ある日を境にして、セックスそれ自体からも遠ざかっていきました。
M性感といわれるような性風俗にいくこともなく、M男モノのアダルトビデオを鑑賞することもなく、SMクラブに通うなどということもなく、ムラムラとしたらグラビアアイドルの写真などを見ながら手早くオナニーをして性欲処理をするというあまりにも普通の性癖とうまく付き合いながら、平凡以下の性体験だけを抱えて墓に入るのだろうと考えていたわたくしが、それにしても、まさかM男だったとは自分でも予想外でした。
SMテレクラでSMテレフォンセックスに興じ、電話越しに女王様に調教されることを好むわたくしは、しかし、ただのM男ではなかったというのも一方では事実でした。
わたくしは、SMテレクラ専門のM男であり、SMテレフォンセックスしか楽しめないというM男だったのです。
SMテレクラというものを通してSMテレフォンセックスの快楽を知り、M男として目覚めた私は、それまで興味の範囲外にあったM性感であるとかM男モノのアダルトビデオであるとかSMクラブというものにも関心を持つことになりました。M男として目覚めた以上、それは当然の行動であるといえるでしょう。
ところが、です。これらのM男であれば随喜の涙を流しながら射精するであろうあらゆるMコンテンツは、私のことを決して満たしはしなかったのであります。
SMテレクラにおけるSMテレフォンセックス以外のMコンテンツに触れるたびに、わたくしは「なんだか違うな」という違和感にとらわれることになりました。
「SMテレクラでのSMテレフォンセックス中にM男であることは、あんなにも快楽的なのに、どうしてSMテレクラのSMテレフォンセックス以外のMコンテンツでは満足できないのだろう」という悩みは、M男の自覚を持ってからしばらくはわたくしの悩みのタネであったのですが、こういった悩みは、SMテレクラのSMテレフォンセックスをプレイしてM男としての快楽に耽溺し豚のような射精をすることによって解決する悩みでもありましたから、次第に考えることがなくなっていきました。
違和感と快楽の繰り返しのなかで、わたくしは「SMテレクラのSMテレフォンセックスというのは、自分にとっては性癖におけるインプリンティングだったのだろう」という結論にいたりました。
それほど、はじめてのSMテレフォンセックスは、わたくしにとって刺激的だったということです。それまでノーマルなセックスしかしたことがなかったわたくしにとって、SMテレフォンセックスというのは洗礼であり、無防備な心身を揺さぶるすさまじい衝撃だったのです。
SMテレクラでSMテレフォンセックスをプレイしたとき、わたくしは、自分がなぜオーソドックスでノーマルなセックスを楽しめないのか、ということをはじめて理解したのだと思います。
オーソドックスでノーマルなセックスというのは、あまりにも直線的な絶頂を目指しているのですし、快楽の充実のためにたえず焦っていて、しかも、耐え難いことに肉体的すぎました。
SMテレフォンセックスは、これをそのままひっくり返したような快楽をわたくしに与えてくれるプレイでした。つまり、どこまでも拡散していき多様になっていき遅延を基本として快楽の到来を引き伸ばし、その待機の時間を快楽に変換していく。肉体的な苦痛などは二の次であって、どちらかというと、精神に作用する苦痛こそが、わたくしにとっては快楽だったのです。
わたくしがM性感であるとかSMクラブのような、肉体なしでは楽しむことができないSMというものにあまり興味を持つことができなかったのは、ある意味当然であると思います。
それに、M男を扱ったアダルトビデオというのは、わたくしのM体験ではありません。SMAVの鑑賞は、眺めるM体験として、自分は無傷のままで楽しむことができますが、SMテレフォンセックスという場において、生きた女王様から即興的に繰り出される言葉責めという予測のつかない楽しみを知ってしまったあとは、やはり、どうしても退屈であると言わざるをえません。
今のわたくしにはSMテレフォンセックスしかありません。しかし、わたくしはかつてはSMテレフォンセックスなしで生きてきたはずなのです。SMテレフォンセックスで女王様に調教される快楽を知ってしまったわたくしからすると、その頃のわたくしは一体どうやって生きてきたのか、不思議でならないのであります。
SMテレクラと出会い、SMテレフォンセックスの快楽を知ったわたくしは、遅咲きながらようやく人生を歩みだしたといっていいのではないかと思います。
女王様という存在がいないと生きていけない、独り立ちできないヨチヨチ歩きの赤子のようなM男ではありますが、この手足を緊縛されている以上ハイハイすることしかできないというようなSMテレフォンセックスの「不自由」こそが、まさにわたくしが心のどこかで望んでいたものであったのです。
わたくしは自由などというものにすっかり飽き飽きしていたのでしょう。女王様によってすべてが左右され、快楽を自分で選ぶことができない状態に身を置き管理されるという不自由さこそが、わたくしの欲していたものであったのです。
現在、わたくしは最後にSMテレフォンセックスで繋がった女王様の命令によって、SMテレクラを利用することを禁じられている状態にあります。
それまでは自由なタイミングで、自分がしたいと思ったときにSMテレフォンセックスに興じることができたのですが、わたくしは、現在、そのような「自由」を禁じられており、SMテレフォンセックスができない「緊縛」の状態にあります。
SMテレクラを愛し、SMテレフォンセックスをプレイすることでしかM男としての生を実感できないわたくしが、女王様によってSMテレクラの利用を禁じられSMテレフォンセックスの快楽から遠ざけられていると聞いて、わたくしの身を案じる人がもしかしたらいるかもしれませんが、心配ご無用です。
むしろ、わたくしは、女王様によってSMテレクラの利用を禁じられることによって、「自由なSMテレフォンセックス」というあり方に耽溺していた自分を恥ずかしく思うほどなのです。
なるほど、SMテレフォンセックスを実際にプレイすることはできなくなりました。ですが、このいつ緊縛がとかれるのかまるでわからない禁止の状態に身を置くという時間の果てしない「待機」と「期待」の感覚と苦痛こそが、まさにM的快楽の至高のものであるのです。
つまり、わたくしは、わたくしのSMテレクラ利用を禁止し、SMテレフォンセックスの快楽に安易に自由に飛びつく私を縛り上げてくれた女王様の手によって、24時間365日、たえまなくSMテレフォンセックスをプレイしているという状況にこの身を晒し続けることになったのです。
なんという離れ業でしょうか。わたくしというM男が真に望んでいたSMテレフォンセックスの快楽を、女王様は「私がいいっていうまでもうSMテレクラを使っちゃだめよ」という一言だけで導き出してみせたのです。このほとんど錬金術師的な快楽の創出!コロンブスの卵に比肩しうる発想!
わたくしは、いま、ただひたすらに「待つ」ことしかできません。しかし、この「待つ」という状態から解放される瞬間を想像し、未来へ期待をいだきつづけるという苦痛を味わうことこそがマゾヒズム的な快楽の最高のものであるのです。
思えば、SMテレクラを利用し、SMテレフォンセックスというものをプレイしたはじまりの日から、わたくしは、こんなふうにSMテレフォンセックスをプレイする自由を奪われ、不自由な緊縛のなかで女王様からの許しがくる日を待ち続けるだけの日々としてのSMテレフォンセックスというものを求めていたような気がします。
SMテレクラを禁止され、SMテレフォンセックスを禁止されてからもうどれほどの時間が過ぎたのか、わたくしにはもうわかりませんが、その時間のなかでわたくしはひたすらに勃起してノーハンド射精をしているのです。
ただ、女王様には手落ちが一つだけありました。それは、わたくしの「射精」を禁止しなかったということです。あのとき、女王様が、SMテレクラだけでなくわたくしの「射精」をも禁止してくれていたら、わたくしはその禁止命令のなかで永遠の射精管理の牢獄に閉じ込められて、より強烈なマゾ的快楽のなかで滅びることができたはずなのに。こればかりは残念でなりません。
女王様に禁止されていない以上、わたくしは待ちながらペニスを激しくこすりあげる手を止めることはできないのです。ああ、SMテレクラの女王様がわたくしの「射精」を禁じてくれたら!しかし、SMテレクラの利用を禁じられているわたくしは、女王様からの「SMテレクラ禁止令の解除」がない限り、「射精」を禁じてくれる女王様との回線をつなぐことが永遠にできないのです。