もとよりコミュニケーションなんてものにまったく期待していないので、それもあってテレクラという場所にたどり着いたのかもしれないし、最終的にSMテレフォンセックスという他者との断絶が際立つプレイに落ち着いたのもある意味では当然であるように思うのだ。
テレクラというのは電話を使って会話をすることでコミュニケーションをするツールであると言われているが、私の感じたままを言うならば、これは違う。
テレクラは電話を使って会話をすることで、自分と他人はコミュニケーションをとることができない、という伝達不可能性を痛感するためのツールであるというのが私の考えだ。
伝達や共感や理解などは、テレクラに関係なく、人間同士の間に発生することがない。少なくとも、私の場合は、これまで生きてきて、自分と他人の間に、伝達や共感や理解というものが発生したことはないと思う。
テレフォンセックス、とりわけ、SMテレフォンセックスというプレイは、自分の欲望の伝達不可能性、他者との共感が拒まれる独立した自分勝手な欲望、理解不能な他者との対決というもので成立していると私は考えている。
SMテレフォンセックスなどに興じていると、まるで自分が「ひとり」ではないなどと錯覚しそうになるが、実際は、それぞれがそれぞれの電話回線のさきの独房で孤独な性癖をどうしたらいいかわからないままうめいているだけなのである。
女王様につながれば女王様の、マゾ豚につながればマゾ豚の、それぞれの孤独がある。私は、彼女たち女王様やマゾ豚の孤独を、要求された欲望という形で聞く。
私には、彼女たちがそれらの性的欲求を通して何を理解してほしくて、どういった共感が欲しくて、また、自分のなかの何を伝達しようとしているのか、さっぱりわからない。
何を求めているのか伝わらないし、共感もできないし、理解もできないからこそ、自分は、相手の望むままに振る舞うのだが、その私の振る舞いにおいて、女王様なりマゾ豚に「伝えたい/共感されたい/理解されたい」というような態度は一切含まれていない。
電話回線のこちら側で私も孤独なのだ。さりとて、この孤独に苛まれて苦しんでいるというわけでもない。また、この孤独というものが、SMテレフォンセックスという女王様やマゾ豚との逸脱した性的倒錯の時間のなかで解決されるとも思っていない。
共感もできず理解もできない他者に向けて孤独な私が伝達に届き得ない言葉を放ち、また、その他者が同じように伝達できない言葉を返してくる。
その応酬のなかで、それぞれが孤独のなかで想定して求めていたヴィジョンとは違うであろう、断絶した孤独な他者どうしが噛み合わない会話をした結果生まれてきた新しい性的時空間が立ち上がってくる。
この性的時空間のなかに身を投じることが、伝達共感理解不可能なお互いの小さな誤解の種である言葉を積み重ねて成立するSMテレフォンセックスの快楽の醍醐味があるのではないかと私は考えているのだが、このような私の考えは、おそらく、女王様にもマゾ豚にも伝わらないし共感を得ることもないだろうし、理解もされないだろう。
だから、私は、それを伝えるのではなく、共感を求める素振りをみせるのではなく、理解を欲するのでもなく、快楽につながっていくかもしれないと期待される言葉だけを電話回線の向こう側にいるもう一つの言葉に向かって投げかけるのだ。
SMテレフォンセックスの言葉は、電話回線の奥から、石つぶてとして自分に投げつけられてくる。物としての言葉が飛んで耳元にぶつかってくるときの、なんという痛み、なんという苦しみ。
SMテレフォンセックスというのはどこかバトルに似ている。それも、なにかある目的を満たすための手段としてのバトルではなく、バトルそれ自体が目的になっているバトルに。
私とSMテレフォンセックスをすることになる女王様やマゾ豚は、私の格好のライバルといったところだ。おれたち、伝達も共感も理解もできねえ、だから、拳で殴り合うことしかできないよな?というバトルの原理を、そのまま電話回線とセックスのうえに持ち込んだときに、SMテレフォンセックスが発生するのではないか。
「あたしも相当の女王様だと思ってたけど、お前もなかなかのマゾ奴隷だね、なんだか嬉しくなってきちゃうよ」という女王様に「おれのマゾ奴隷っぷりは、こんなもんじゃないぜ?まだ一割程度の力も使っちゃいねえんだゾ?」と食って掛かるとき、女王様から「あたしだって本気を出してるわけがないじゃないか」という対抗の態度が来たならば、SMテレフォンセックスはどこまでも過激に加速していく。
それは、それぞれのSとMをぶつけあい、高めあったすえに、もうこの先はないだろう、という限界地点が見えてきたあとも続く応酬だ。
孤独でいたときにはわからなかった自分のなかのS、あるいは、Mというものが、他者との対話のなかで高められ、高められた地点で新たな視座が芽生えてくる。
お互いに高めあった場所からは、また殴り合うしかない。激しくSMテレフォンセックスを繰り広げるしかない。
SMテレフォンセックスを通して高めあってしまったSとMは、もはや、その高まってしまったSとMとしてしか生きていくことができない。
バチボコに言葉で殴り合ったSMテレフォンセックスのすえに倒れ込んだ高みから見下ろしたとき、その二人は、SMテレフォンセックスを開始する前の二人よりも、さらに伝達、理解、共感不能な孤独を抱えているはずだ。
これだけ激しくSMテレフォンセックスをしたのは、あんたが初めてさ。ああ、おれもだ。といって、お互いの絶頂のなかで息も絶え絶えになりながら、二人のなかに残っているのは「愛」のような感覚だけだ。それは言葉で殴りあいながらしごきあげた性器の痛みとしてわずかにおとずれる「愛」のような疼き。
こんにち、不良漫画などに登場するヤンキーたち以外でこれほどまで純粋で馬鹿げたバトルを繰り広げてそれぞれの孤独を深めているのは、もしかするとSMテレフォンセックスプレイヤーの男女だけなのかもしれない。
SMテレフォンセックスをプレイした直後にもう次のSMテレフォンセックスをプレイしたくなっているというあの精神状態の秘密はおそらくはここにある。