私にとってSMテレフォンセックスというのは、あくまでも、快楽の彼岸に身を置くことではじめて目視しうる絶対者の光をかいまみるための、ひとつの儀式でしかない。
私のSMテレフォンセックスは、要するに神秘主義的SMテレフォンセックスであるのだが、それがSMテレフォンセックスという「感性的快楽」を求めるプレイである以上、神秘哲学それ自体に結実することはない。
つまるところ、私のSMテレフォンセックスは戯れでしかなく、理性で制御できる範囲内でする知的操作のお遊びでしかなく、その意味において、神秘から程遠く、これ以上に「人間」らしいものもないようなプレイであるのだが、それを理解したうえでも、そういった知的操作によって快楽の位置を少しだけ「純粋叡智」の方向へとズラしてやることに楽しみや喜びがないわけでもない。
実際、SMテレフォンセックスに、神秘哲学から歴史性を抜き、ミスティークの文脈からは切り離されながら、その根源的かつ具体的体験を抜きにして、抽象性だけを取り出し、方法だけを借りる神秘主義的SMテレフォンセックスを開始してからは、そういった方法を採用していなかったかつての無軌道なSMテレフォンセックスよりも強い快楽を得られるようになったのも事実。
私の営みは、善のイデアなどとは無縁であるのは当然のこと、善のイデアから派生した諸イデアとも関係のない場所で、地上的な快楽を貪るだけの動物的な行為でしかないのだが、このくらいの魂のレベルの低さが、そもそもSMテレフォンセックスには似つかわしいのではないか、とも思われる。
魂のレベルが低い行為に、神秘哲学の高次の次元に魂を引き上げる方法を採用させるという矛盾は、それが矛盾であるゆえに性的快楽を高めてくれるのかもしれない。
より高みを目指しながら、より低い行動をとる、という矛盾によって引き裂かれる肉体と精神が受け取る齟齬は目眩として気絶を誘うのであり、ただ高みを目指すときや、ただ低い行動をとるときの、単色的な営みから生じないある激情を生じせしめる。
重要なのは、それに意識的に取り組んでいるということではないだろうか。もちろん、意識的であり自覚しているのは私だけだ。
SMテレクラを通して私の神秘主義的SMテレフォンセックスに突き合うことになる変態テレクラ女性は、それがSであれ、Mであれ、私が考えているようなこの「矛盾をそのまま生きる」「最高と最低を同居させる」というようなことをまるで知らないまま、考えもしないまま、私のSMテレフォンセックスの相手になるしかない。
とはいえ、私は自分のSMテレフォンセックスの相手となる変態女性を通して、何かしらの「美」を直感してみようと試みることもある。
しかし、SMテレクラを使うような人間は、男性も女性も「美」を直感させるような人間ではなく、地上を這い回る醜い魂であることがほとんどで、私もその例外ではない。
マゾヒストが崇拝対象として崇めるヴィーナスの女性を通したSMテレフォンセックスを通して、マゾッホ的なマゾ男性が、神秘哲学の徹底のさきに垣間見える「美」のイデアに到達したかどうかは、私にはわからないが、SMテレフォンセックスをしていると、こういったことが気にならないでもない。
それが肉体的であり人間的であり地上的な営みである以上、SMおよびSMテレフォンセックスというのは、肉体に縛られた限定された地点にまで人を運ぶだけで終わるものであるだろう。
だが、マゾヒストというのは「マゾヒストに可能な範囲」において、「人間に可能な範囲で神に近づくことになるイデア鑑賞者」の足元に少しばかり接近することになるのではないか。
しかし、マゾヒストが「マゾヒストに可能な範囲」において神秘のいとぐちをつかもうとするのであれば、サディストというのは「神」に可能な限り接近していなければならないのではないか。
SMテレフォンセックスに神秘主義的な要素を入れ、神秘哲学の手法を取り入れようという的はずれな営みを私が開始したのは、私が性的にはサディストであり、「マゾヒストに対して神として振る舞う」という行為を要求されるからだったのではないか。
前述したとおり、人間が人間である以上、「神」に接近することはできても、「神」そのものになり、「神」と「われ」を完全に合一化することはできない。
一即全、全即一の領域というのは実現不可能であるが、実現不可能であるがゆえに、その可能性の限界地点を追い求めることができる。
サディストたるもの、より強烈なSMテレフォンセックスの快楽を得ようとするのであれば、少しでも「神」に接近するに越したことはない。それが無謀な営みであり、冒涜的でさえある営みであっても、至高に向かって段階的に上り詰めていく愛の道を極め、そこで得た絶対者の感覚を持って、SMテレクラという地上以下の場所へと降りていかなければならないのではないか。
思考は整理されていないが、私が現在、神秘主義的SMテレフォンセックスのプレイを中断して休止し、ただひたすらにイデアの観照に邁進しているのは、その観照体験を経てより強烈なサディストとしてSMテレクラに舞い戻るためではないだろうか。
だが、ここには危険がある。私が神秘に到達し、言語化できない存在と生々しく対峙し、自己意識をその存在とほぼ同レベルにまで高めたさきで、私には、自分がSMテレクラにもどり、SMテレフォンセックスを再開する自信がないからだ。
ミイラ取りがミイラになるように、イデアに到達しようとする人間はイデアになるとするならば、イデアそのものにぎりぎりまで接近しイデアそのものになろうとした私は、いまだにSMテレフォンセックスなどの楽しみに耽溺している私とはまるで別人の、違う階層の人間になっているはずで、違う階層に移行した以上、もはや、当初の目的であったSMテレフォンセックスなどはどうでもよくなってしまうのではないか。
まあ、しかし、そのときはそのときで、私一人がSMテレフォンセックスから足を洗おうと、SMテレフォンセックスをプレイしたいと考えている男女は無数に存在するのだし、そういった男女は減ることはあっても滅びることはなく、SMテレクラは残り続けるのだから、大した問題ではないのである。
そもそも、私がSMテレフォンセックスというものを神秘主義的SMテレフォンセックスと呼ぶものへと変化せしめようとし、そこでその営みの根本的な間違いに気づき、SMテレフォンセックスを中断し、愛と死と弁証法の道をのぼりつめようとしはじめたことは、私が「SMテレフォンセックス」などという現世的な快楽に飽きてきたからだということではないだろうか。
私はSMテレフォンセックスを長らく愛好してきたが、SMテレフォンセックス愛好家として生き、そして、SMテレフォンセックス愛好家として快楽を貪り、SMテレフォンセックスをプレイしながら死んでいく、ということに空虚を感じはじめてしまったのかもしれない。
SMテレフォンセックスの領域にとどまっている限り、私は必ず死ぬ。SMテレフォンセックスを通して不死の感覚を得ることは絶対にありえないことだ。
私の根本的な誤謬は、SMテレフォンセックスを通して不死の感覚をつかもうとしたところにあるのであって、しかし、その間違った出発地点から、SMテレフォンセックスそれ自体を中断し、不死の感覚をつかむための光への接近を開始したというのは、正しい道をゆく軌道修正であったのかもしれない。
私はいま迷妄のさなかにいる。神秘主義的SMテレフォンセックスなどと言い出したことは、私が低次元の人生を歩んできた結果でしかない。この迷妄から逃れるためには、神秘主義的テレフォンセックスではなく、神秘主義的思考それ自体を開始しなければならない。
そして、私はおよそ神ならぬ身でありながら神の態度をとろうとする驕傲なサディストである自分から身を引き離すのだ。