私はSMテレクラのヘビーユーザーであり、ほとんど毎日のようにSMテレフォンセックスをプレイしているSMテレフォンセックスの中毒者である。
しかし、SMテレクラでSMテレフォンセックスを楽しんでいる私はというと、冷血のサディストでも真性のマゾ奴隷でもない。
こんな書き方をすると、混乱されるだろうか?サディストでもマゾヒストでもないのに、SMテレクラを利用し、SMテレフォンセックスをプレイすることなど、しかも、中毒者レベルでほぼ毎日変態プレイをすることなど果たして可能なのだろうか、という訝りを持つのは当然のことだろう。
ところが、SMテレクラの利用、およびSMテレフォンセックスの堪能は、「サディストかマゾヒストか」という二者択一に結論を出して自分の性癖による立場を永久に固定することがなくても可能なのだ。少なくとも私に関しては、この「性癖の固定」から逃れることによって、よりSMテレクラを楽しめる自分を獲得していると思う。
「サディストかマゾヒストか、それが問題だ」などということは、それほど重要ではないのだ。「サディストにもマゾヒストにも、相手が求める『私』になって自由自在にその立場を変化させてみせる」ということが何よりも重要なのだ。
SMテレクラにコールをして、繋がった相手が女王様であったならばマゾヒストとして、調教希望のマゾ奴隷であったならばサディストとして臨機応変に振る舞いを選び、「サディストでもマゾヒストでもない私」なのに「サディストにもマゾヒストにもなれる私」として演じきること。
その演じきった自分、他者に要求される「私」こそが「私」になり、その「私」は他者に応じて無数に増えていくことこそが、私にとってSMテレフォンセックスをプレイする醍醐味であり、快楽なのである。
一日に複数回SMテレフォンセックスをプレイするというような性欲があまりにも強い日など、私は、人間の尊厳を奪われて口汚く罵られ虐げられるばかりであったマゾヒストの男性として生きた数十分後には、もう、相手の自由意志を剥奪して思いつく限りの残酷な仕打ちで退屈しのぎにマゾ奴隷を痛めつけるサディストにはやがわりしているということさえあるのだ。
さて、このようなプレイスタイルを通してサディストとしてもマゾヒストとしても、汲み尽くすことができるあらゆる快楽を限界まですすることをやめない貪欲な私が、SMテレクラのSMテレフォンセックスをプレイするにあたって、密かな楽しみとしているのは「ダイヤの原石探し」である。
SMテレクラを利用する女王様にせよ、マゾ奴隷にせよ、その女性たちは素人だ。普段は、SMとはまるで関係のない仕事をして、SMテレクラを利用するときだけ自分の性癖をぶちまける素人女性たちは、しかし、素人離れしていると感じさせるほどの演技力を持っている女性たちでもある。
もちろん、全員がそういった演技力の持ち主ではないにせよ、SMテレフォンセックスをプレイしていると、ときおり、デビューしたばかりのセクシー女優などではとても太刀打ちできないほどの、変態性欲というパトスだけを拠り所にして素晴らしい演技を繰り広げるSMテレクラ女性がいて、私はそういった女性の変態性欲演技に圧倒されることをひたすらに求めているのだ。
コールが繋がって、お互いの性癖の立場が明らかになり、演技が開始されるとき、私は、回線越しの女王様なりマゾ奴隷の「演技チェック」を開始する。果たして、彼女はダイヤの原石か否か?
大根役者と言わざるをえない女王様やマゾ奴隷との回線に対して、私は首をふりながら「どうやら、今回は不作らしいな」などとプロデューサー顔でうそぶきながら、回線を切る。
だが、天才的な演技を見せる女王様やマゾ奴隷との回線がつながると、私は身を乗り出すように彼女の演技に夢中になり、いろめきだつのである。
つまり、SMテレクラというのは、私にとってオーディションの場であるということだ。SMテレフォンセックスというのは「私の舞台に出演するべき女優であるかどうか」をはかるための演技テストなのだ。
オーディションというのは「たとえ」ではない。というのも、私は「いずれ劇団を立ち上げたい」という個人的な野望を持っているからだ。
私は自分の劇団のために、人間の残酷さがむきだしになる極限の身体性を提示するテクストを書き上げている。このテクストを上演するためには、サディズムとマゾヒズムの根本的な原理をよく理解したうえで、そのどちらをも自分自身の身体のうえに現実化する能力のある主演女優が必要なのだ。
私にとって、SMテレクラにおけるSMテレフォンセックスというのは、女王様とマゾ豚女たちによる果てしなくつづく未完の紅天女争奪戦なのである。
女王様とマゾ奴隷。私には二人の主演女優が必要だ。そして、眼を見張るような演技をSMテレフォンセックスで繰り広げるSMテレクラ女性とは無数に巡り合ってきたものの、一方では、私にとってのSMテレクラ紅天女と呼べるほどの女王様やマゾ奴隷にはまだ出会っていないという状況がある。
女王様に対してはマゾヒストとして、マゾ奴隷に対してはサディストとして、演技を理性とともに冷静に見据えながら、自身も変態としての演技を熱演しながら、自分の精嚢の限界を超えてでも射精を繰り返しているのは、私に残された時間が少ないからに他ならない。
マゾ豚としての演技に身が入りすぎて射精した精液に血が混じっていたこともあった。私の射精能力は限界を迎えつつある。
リビドーの喪失は、作品エネルギーも減退させるだろう。私のSMテレクラ演劇が満足のいく結果になるかどうかは、ひとえに、私の性欲、精液残存量、勃起維持力、射精威力、連続射精力などに左右されるのであって、想像力を飛躍させそれを創造的な劇空間にさせるためには、健康的なペニスと睾丸を持っていなければならない。
だが、このままでは、近いうちに、私のペニスと睾丸はSMテレフォンセックスのプレイのしすぎで使い物にならなくなる。そして、私はついに女王様とマゾ奴隷のSMテレクラ紅天女を見つけることができず、悲願であったSMテレクラ残酷演劇の上演ができないまま、朽ち果てた夢としなびて二度と勃起しないインポテンツの肉体だけを抱えて惨めな余生を送ることを余儀なくされる。
だから、そうなってしまうまえに私は女王様とマゾ奴隷のそれぞれの天才的SMテレフォンセックスプレイヤーを見つけ出さなければならない。
そのために、命を削るようなマゾ豚やサディストとしての演技で本気のSMテレフォンセックスをプレイしなければならないのだが、この自分の野心に忠実であるがゆえに過激なSMテレフォンセックスのために、私は野心を達成させるための時間であるセックスの寿命を奪われることになるのだ。
次こそは、という私の候補生を探す姿勢は次第に焦りを生じさせることになるだろう。その焦りを乗り越えるために私のSMテレフォンセックスはサド方面とマゾ方面のそれぞれのピークを目指し、いよいよその倒錯した快楽を高めていくことになるだろう。
私のSM紅天女たちは、いま、どこで私のコールを待ってくれているのだろうか。それとも、SM紅天女などという理想は、夢想家の私が想定した現実離れした女性でしかなくて、現実世界には生存していない女性なのだろうか。
近年は、オーディションのためにする私のSMテレフォンセックスの演技があまりにも真に迫るものであり異常すぎることもあって、女王様が動揺して責めの手をゆるめ、マゾ奴隷の精神が被虐の快楽としては受け取れないということも増えてきた。
だが、私のSMテレクラ残酷演劇の主演女優をはるダブルキャストの女性ともあろうものが、そんな軟弱であっては困るのだ。そんなSMテレクラ女性であるならば、こちらから願い下げだ。
私の本気のSMテレフォンセックスを相手取って、私の想定以上の女王様/マゾ奴隷としてのヴィジョンを見せてくれるテレクラ女性だけが、私の作品のなかで存分に生きることができるだろう。
私はSMテレクラ女性の未知の可能性に賭けている。テレクラにコールをする、電話をかけるという行為、そして、SMテレフォンセックスの時間のなかに飛び込み、自身の持ちうるすべての能力と経験と即興性をいかしてSMテレフォンセックスの快楽の限界に挑むのは、私の劇作家/演出家/役者/SMテレフォンセックス愛好家としての一世一代の賭けなのである。