SMテレフォンセックスがない世界など生きるに値しない。いや、それとも生きるに値しない場所をやりすごすために、やりたくもないSMテレフォンセックスをしているだけなのか。
SMテレフォンセックスをプレイしている時間が完全なる喜びに満たされるということはない。そこには倦怠と疲労がある。
SMテレクラに電話してマゾ志望のテレクラ女性との回線が繋がると、「どうやら今夜もSMテレフォンセックスの機会に恵まれたようだ」という安堵と同時に、SMテレフォンセックスをプレイすることの面倒臭さであるとか身勝手な契約関係を求めて下手に回り続けるマゾ女にウンザリもさせられるのだ。
これは、自分がサディストの側に立っているがゆえの倦怠だろうか、と思い、女王様だけに繋がる電話回線を使ってマゾ奴隷の男を演じてみたこともあったのだが、向いていないことはやるべきではない、私は、普段自分が調教しているマゾ奴隷の女性の真似をするようにしてM男を演じきることはできたのだが、そこに何かしらの性的快楽を見出すことはできなかった。
それで、惰性という誹りを受けても構わないのだが、また本来のサディストとしての立場に戻り、安堵とうんざりのないまぜになったSMテレフォンセックスを通して、わかりきった道筋で行われるマゾ奴隷の調教を繰り返しているというわけだ。
SMテレフォンセックスをプレイしていると、過激であるとか、多様性があるだとか思われるかもしれないが、これは違う。SMテレフォンセックスに限らず、SMというのは様式の世界であり、極めて保守的であるのだ。
SMという様式から外れるほどのサディストやマゾヒストは、SMという場所から放逐されることにもなるだろう。SMという枠内で変態行為を行っている人間は、それほど変態ではない。
社会から容認されるレベルの軽度の変態行為を、何か特別な変態行為であるかのようなヴェールで覆いながら安全圏で楽しんでいるのである。
SMという行為の強固な保守性と安全圏での性的逸脱は、たとえば、SMモノのアダルトビデオなどを見れば明らかで、そこから少しでも外れていくような猟奇的な異常性癖は、SMという枠外のマニアックビデオとして、SMでは物足りなくなってしまった人間の手によって作られ、高額商品として流通し、消費されているのである。
SMテレクラというものだけがあって、猟奇テレクラというようなものがないのはそのためである。窒息テレクラ、腹パンチテレクラ、バキュームベッドテレクラ、食糞テレクラ、虫責めテレクラ、両性具有テレクラ、ネクロフィリアテレクラ、肉体改造テレクラ、リョナテレクラなどのテレクラ(とはいえ、これらも所詮は、安全圏のテレクラであるSMテレクラで日々SMテレフォンセックスなどという保守的なプレイを楽しむ私による羅列でしかない。だから、私の想像を超える変態性欲を持った真の性的逸脱者、コミュニティから放逐されたものには、あまりに保守的でありふれた性癖のリストに過ぎないという断罪を受けることになるだろう)がないのはある意味当然のことであり、SMテレクラ以上に安全で変態性のかけらもないテレクラも他にはないのである。
「白いハイソックスを履いた相手の首を締めて窒息させる」というような特殊な性癖を持っていて、その特殊性癖に突き動かされるままに一線を超えた快楽殺人鬼がかつて存在したが、彼の場合も、SMからは逸脱している安全圏外の性的欲望を叶えるためには自殺サイトなどを逍遥しなければならなかったのである。
快楽殺人鬼の精神状態を想像することは難しいし、そうでなくても他人の気持ちを理解することはできないが、私がもし彼と同じような逸脱した性癖を持っていたならば、おそらく、SMテレクラではあまりに平和すぎてあくびが出たことだろう。
私は何も、安全圏で楽しむことができるSMテレフォンセックスというものを断罪し、その虚偽を暴き、真実を明るみにし、より強烈な変態行為を奨励し、コミュニティから放逐された真性の変態の復権とそういった変態の志向する変態行為の実現を高らかにうたいあげたいのではない。私にはそういった野心は微塵もない。
むしろ、私は、この安全圏で楽しむことができるSMテレフォンセックスのマンネリズムと保守性のなかで倦怠感に包まれることを欲しているのだし、その倦怠感によって、生きるに値しない世界をかろうじて乗り越え、そして、コミュニティのなかにもとどまりながら安穏と生きていたいのである。
私の安堵と倦怠は、「自分の性癖がこの程度の退屈でありふれたものでよかった」というところからくるものなのかもしれない。そして、こういった感覚は、およそSMというものをプレイする人間には共通する感覚なのではないかと思われもするのだが、それはあまりにも、SMやSMテレフォンセックスをプレイする人たちに期待しすぎだろうか。
いや、私以外のSMテレフォンセックスプレイヤーは、SMテレフォンセックスというものをプレイすることによって「他の人とは違う自分」ということに誇りを持つこともあるのかもしれない。
SMとノイズミュージックの親和性のようなものを考えると、このあたり、なかなか興味深い共通点(おそろしく保守的なのに、プレイヤーは自分のことを過激であり前衛であると思いこんでいる傾向があり、何か人とは違う特別なことをしているという自意識を充足させやすい)が見いだせそうな気がするが、これは私以外の誰かが私以上にうまく歌うことを期待して、思いつきをポンと放置するだけにとどめておくことにしよう。
私としては、やはり、SMテレクラを利用し、SMテレフォンセックスをプレイする人間の「自分は何一つ特別なことなどしていない」という感覚を疑いなく信じることにしよう。そして、自分自身の安堵と倦怠の心地よい退屈さに馴れ合いたいところだ。
現在、SMテレフォンセックスをプレイする人間のなかで、新しい性を開拓しようなどという野心を持っているものはほとんどいないのではないかと思われる。
もちろん、ゼロではないのだし、ときおり新しい性を開拓しようともがき試行錯誤を繰り返すSMテレフォンセックスプレイヤーがいるという噂を聞くこともあるが、私としては、可能な限り様式的、ほとんど伝統的といってもいいほどの、手垢がつきまくったSMテレフォンセックスを楽しみたい。新しい性の開拓に挑戦している奇特なSMテレフォンセックスプレイヤーに対しては、その性の開拓がうまくいくことをただただ祈るばかりである。
SMテレクラという遊び場に関しては、ありふれたSM、SMテレフォンセックスを積極的に求めている人間の保守的な欲望をよく理解していて感心させられることしきりだ。
まず提示されるのは、SかMかという二択である。これは、キャバクラや性風俗などで、会話の糸口として「お兄さんってS?それともM?」などと聞かれるのと本質的には何も変わらない陳腐な質問であり、それ以上でもそれ以下でもない。
だから、ここでサディズムとマゾヒズムからはぐれてしまう人間は、自然とSMテレフォンセックスというゲームからもはぐれてしまうことになる。
私は、社会生活を営めるレベルのサディストとして、Sという選択肢をとればいいのだし、Sとして利用するテレクラには、自然とMの女性が集まっているので実に話が早い。
SMテレクラのトップページなどを見れば明らかだが、性癖による分担が終わったあとは結局のところ「言葉責め」くらいしか遊びが残されていないことがわかる。それが「調教」であれ「放置プレイ」であれ「緊縛」であれ、すべては、世間に了解されているレベルのSとM同士による、ステレオタイプの反復があるだけなのである。
このステレオタイプの反復で一時間程度の時間をだらだらと潰すのが、安堵と倦怠に満ちたSMテレフォンセックスの醍醐味といえるのであって、この時間によって私は生きるに値しないこの世界のくだらなさと退屈さ、そして、代替可能なまるで特別ではない自分と他人を笑い飛ばしながら受け入れることができるのでもある。
SMテレフォンセックスはほんの気晴らしでしかない。だが、そんなほんの気晴らしだけが私をかろうじて生き延びさせているのも事実だ。