すべてのマゾヒストは、神と悪魔の対話によって人智を超えた壮絶な試練にさらされ、その試練を乗り越えたあの敬虔なヨブにあこがれている。いや、もしかすると私だけかもしれないが。
主であるセム的一神教の神に対する契約と信仰と、その全面的な帰依によって、全知全能の神という「あらゆることが可能な唯一者かつ絶対者」から加えられる呵責なき裁きと、加虐などという言葉ではあまりにも生ぬるく感じられる不条理かつ理不尽な罰に耐え抜いてみせたヨブを超えるマゾヒストは、いまだかつて、この地上に現れたことはない。いや、いないはずだ、と信じたいのだが、どうだろうか。
もし、ヨブ以上のマゾヒストがいるならば、どうか今すぐに私の前に連れてきていただきたい。もし、それが真にヨブ以上のマゾヒストであったならば、私は自分の意見を覆すことになんの抵抗もない。それに、ヨブ以上のマゾヒストのマゾヒズムがどのようなSMに到達しているのかについて、詳しく知りたいとさえ思うだろう。
私は真性のマゾヒストではあるが、ヨブ記を読み返すために完全に打ちのめされる。私など、ヨブに比べることもおこがましいのだが、ヨブの前ではマゾヒストとしてあまりに脆弱すぎると言わざるをえないのだし、マゾヒストを名乗ることすらはばかられるほどなのだ。
セム的一神教の神に匹敵するサディストなどというものは、いくら仮定であるとはいえ、そういった存在を想定すること自体がはっきりいって神への冒涜となるのだし、全知全能の唯一神のことをまるで理解していないということにもなるのだが、それを踏まえたうえで、私は、あえて仮定してみる。そして断言する。私は、SMテレフォンセックスを通して、ヨブの責め手であった神のようなサディストに巡り合ったことはまだない。おそらく、これからもないだろう。
私はSMテレフォンセックスに期待しすぎなのだろうか?実際、SMテレフォンセックスの回線で繋がるサディストに落胆させられつづけた日々のなかで、私は、何度SMテレクラの利用をやめて、セム的一神教の信徒になろうと思ったことか。その回数は数え切れない。
だが、私が神との契約関係に全面的に身を投げ出すことなく、いまだにSMテレフォンセックスという世俗的な安全なSMに甘んじているのは、やはり、私が日本という国に生まれ、セム的な一神教という私たちの慣習を超えた信心を獲得し、自分を捨て去るということに、どこかで抵抗を感じており、ぬぐいきれない違和感を抱いているからにほかならないだろう。
だが、敬虔な信徒になることもできないで二の足を踏んでいるような人間が、果たして、それが世俗的なSMテレフォンセックスであったとしても、そのSMテレフォンセックスという場所で高度に完成されたマゾヒストになることなどできるのだろうか。たかがしれた信念に支えられた性癖ということになりかねないのではないか。
SMテレフォンセックスのなかでマゾヒストとしての自分に徹し、文字どおり自分が最低でありその下はないという底の底までへりくだった惨めな実存を積極的に引き受け、そのなかに没入して我を失っていくというような作業を、私が本当に完遂している、完遂できるなどといえるのだろうか。
ヨブに嫉妬するのは、そして、ヨブに限らず、ヨブほどの苦難は与えられないにせよ帰依している多くの連中に嫉妬するのは、まさにこのような点にあるのだが、こういった嫉妬をしている時点で、私は究極のサディストのくるぶしにみずからのうなじを押し当ててひざまずく敬虔な連中になることは一生できないだろう。
マゾヒズムは主との契約だ。私は私なりにSMテレフォンセックスのサディストとの契約関係のなかで奴隷となり、奴隷としての快楽をむさぼりくおうとする。
だが、何かが足りない。おそらくは主であるサディストの問題ではないだろう。マゾヒストとしての私に、何か、決定的なものが欠如しているのだ。
ヨブ記を繰り返し読むという営みは、私のなかに欠けているマゾヒストとしての最も重要な部分が何かということを知ろうとする営みであるのかもしれない。
あるいは、アウグスティヌスの『告白』にも、それに近い趣がある。ヨブ記に比べると明るいこの信仰の書のなかに、マゾヒズム的なものを見出すことは許されてはならないことなのかもしれない。
だが、彼の神に対する全肯定と自分自身の全否定のプロセスには、SMテレフォンセックスをプレイするものにとってSMテレフォンセックスの今後を左右するような大きなヒントが散りばめられているように感じられる。
だが、ヨブ記にせよ、『告白』にせよ、そこから「方法」だけを学んだところで、私は決して真のマゾヒストとしてSMテレフォンセックスをプレイすることはできないのだし、おそらく失敗するだろう。
彼らはマゾヒストになろうとしてなったのではなく、それによって存在することが許され、自分の存在を存在せしめるより大きな、そして、たった一つの絶対的な存在を、サディストとして認識することはないままに、ただひたすらに従順に従っているだけなのだ。
そういった彼らのへりくだりの姿勢にマゾヒスト的なものを汲み取るのは、SMテレフォンセックスにマゾヒストとして参入し、日々「SMテレフォンセックスをより快楽的にするにはどうしたらいいか」を考えている私の目線が歪んでいるのであって、ヨブ記にせよ『告白』にせよ本来はそういった歪んだ視線で読むべき書物ではない。
そうであることを理解しながらも、ヨブを人類史上最高のマゾヒストとして捉えたり、『告白』を一つのマゾヒズムの思考回路の代表的なものとして捉えることを私がやめられないところに、私のマゾヒストとしての限界と、不満の原因があるのかもしれない。
というのも、SMテレクラを利用し、SMテレフォンセックスを楽しんでいる連中は、私が感じているような不満であるとか、より快楽的なSMテレフォンセックスの可能性についてなど、これっぽっちも考えることなく、ただ能天気にSMテレフォンセックスのそこそこの快楽を楽しんで充足しているのであって、ライトSMといったレベルのちょっとした言葉攻めレベルの戯れで満足している様子がうかがえるのである。
私としても、ちょっとした火遊び程度のSMテレフォンセックスで、日常のストレスをほんの少し解消するような快楽を得て満足できるようなSMテレフォンセックスプレイヤーであればよかったのだけれども、私の快楽を求める欲望は、そのようなレベルでの快楽の貪りをどうしても許してはくれなかったらしい。
サドやマゾッホなどの「開発者」たちは、私が現在抱えているような不満や限界などを軽々と乗り越え、真のサディズムとマゾヒズムの新しいあり方を提示したという点で、やはり、特異かつ例外的な存在なのだろう。
とはいえ、ことサディズムに関してもマゾヒズムに関しても、ヨブ記のなかで展開されたような主ほどのサディズムを発揮しているとは思えず、ヨブに比べるとマゾッホが書く程度のマゾヒストは生ぬるいものに感じられる。
私のような凡庸なマゾヒストが彼らのような例外的開発者をこのように値踏みするなどという行為は越権にも程があるのだし、身の程知らずもいい加減にしたほうがいいのだが、私は『毛皮を着たヴィーナス』をマゾヒズムの、そして、自分のSMテレフォンセックスのための参考文献として読み返すことはもう二度とないだろう。
私はヨブ記を繰り返し読み、そこから新しいSMテレフォンセックスのためのいとぐちを見出さなければならない。だが、多くのSMテレフォンセックスプレイヤーは、所詮『毛皮を着たヴィーナス』程度のマゾヒズムで終わるのだ。私もきっとそうだろう。
それを良しとして妥協するか、ある一点を超えて、絶対者、唯一者の奴隷として従属することができるかは、今後のSMテレフォンセックスの課題となるだろう。