SMテレクラを利用し、SMテレフォンセックスをしたいと考えているマゾ奴隷の女は、SMテレクラのサディストの言うことなら何でも聞いてくれる。
というより、彼女たちは、私のようなSMテレクラのサディスト以外の言うことなんて一切聞かないのではないか、と疑われるほど。
疑われるというか、心配になるというか。というのも、SMテレフォンセックスのマゾ奴隷というのは、サディストからの指示がないと存在意義を見出すこともできず、なにか行動を起こすこともできないからである。
SMテレフォンセックスで繋がるマゾ奴隷にサディスティックな指令を出しているときに、ふと「マゾ奴隷は、サディストからの指令がないときは何をしているのだろうか?」という疑問が生じることがある。
誰も責めてくれる相手がなく、こうしてほしい、ということを訴える相手も、これをしろ、という強制的な命令をしてくる相手もいないとき、マゾ奴隷というのは、ほとんど魂が抜けたような状態で壁や天井を見つめているだけなのではないか。
もちろん、これが馬鹿げた想像であるということは重々承知してはいる。マゾ奴隷というものがつねにマゾ奴隷であり、365日24時間サディストからの命令に従って生きているということは、ありえないことであるからだ。
というのも、マゾ奴隷にも生活があり、SMテレフォンセックスをプレイしていない時間は、マゾ奴隷としてではなく(つまり、豚ではなく、ということだ)、人間として生きているのだから、自分の主体性を持って動き、労働をし、それが金銭を稼ぐための仕事である以上、他人に対してときにはサディズム的な言動をとったりすることもあるだろう。
ここで多少の注釈が必要かもしれない。「仕事」というのは根本的にはサディストにだけ許されている行動である。いや、それが言い過ぎだとしても、「仕事ができる」というのは、「サディストとして他人の存在を踏みにじり、人としての価値を無慈悲に奪う才能があるかどうか」ということとほとんど同義なのだと私は考えている。
とはいえ、マゾヒストにはマゾヒスト流の仕事のやり方というのはあるだろう。雇用主の奴隷として自らの身を差し出し、自分を人間ではなく労働力商品として売り込んでいくという悪辣な支配関係は、マゾヒストの気に入るものであるといえる。
マゾヒストの労働の流儀は、「取替可能であり人間の尊厳がない」ということにあらねばならないだろう(「仕事ができない」けれど「ずっと愚直に働いている人」、あなたのまわりにいませんか?ああいったタイプは根っこの部分がマゾヒストなので、絶対に、サディズム的能力が要求される雇用主に回ることはないのですよ)。
少数のサディストと多数のマゾヒスト、そして「タテの構造」の支配関係によって労働と経済はかろうじて回っている。そう考えると、マゾ奴隷というのは、眠っている時間以外はやはりマゾ奴隷なのかもしれない。
このような考えに到達してやっと「壁や天井だけを見つめてSMテレフォンセックスという恩寵を待っているマゾ奴隷」という懸念が消えるのだが、「退勤後SMテレフォンセックスをするようなマゾ奴隷は雇用主のサディズムだけでは自分のマゾヒズムを満足させることができないのか」という新たな心配事も到来する。
私ははじめは自分のためにSMテレフォンセックスをしていたのだし、サディストとしてマゾヒストのうえに君臨することに快楽を感じてもいたのだが、段々と「マゾヒストのためにSMテレフォンセックスをする(なぜなら、サディストなしにマゾヒストはSMテレフォンセックスをプレイすることはできないのだから!)」という、おそらくは誤った使命感によってSMテレフォンセックスをプレイするようになっていたのである。
だから、現在の私というのは、厳密にはサディストではない。マゾ奴隷としての生を生き抜きたいと考えているSMテレクラのマゾヒストに、「指令を与える役割を持った人」としてSMテレフォンセックスのプレイフィールドに参入しているのである。
だから、回線越しのSMテレクラのマゾ奴隷の女性に、「コートの下には何も着用せずに、バイブを股間に突っ込んで固定したまま、路上を歩いてこい」というような命令を出すとき、私は、マゾ奴隷が自分の命令に忠実に行動し、路上で羞恥プレイに興じることを通して、もう、別に性的なサディスト的な快楽などいっさい受け取ってはいないのだ。
ただただサディズム的な命令を発する人として、淡々と機械的に命令をくだす。それが、いつの間にか私の役割になっていたらしい。
そんな役割を引き受ける必要が果たしてあるのか?という疑問が飛び出すのは当然のことである。
だが、私は、自分が快楽を求めてSMテレフォンセックスをしていた時期に、私のサディズム的指令に応じてマゾヒストの行動を実践してくれたマゾ奴隷の女性を、なぜだかわからないが、「捨て去ること」ができないのである。
そこにはもうサディズム的快楽がないのだから、SMテレフォンセックスをする必要はない、だけれども、私がSMテレフォンセックスをやめてしまったら、回線越しにサディストからの電話をまっているマゾ奴隷は世界から取り残されて、孤立してしまうのではないか、という無駄な気遣いが、私をいまだにSMテレフォンセックスにつなぎとめているのだ。
もちろん、SMテレフォンセックスによるマゾヒズム的な快楽を求めていながら、自分自身の王となるサディストが現れない限りはそれを満たすことができない「待ち」の時間は、SMテレフォンセックスを求めているような真性のマゾ奴隷には「放置プレイ」ととらえられ、性的な興奮を与えることになるのかもしれない。
だが、やはり、SMテレフォンセックスを求めているマゾ奴隷の女性たちは、王の登場を結局は待望しているのではないか。そして、真性サディズムであれば永久的放置という形でマゾ奴隷の女性に「苦痛」を与えるだろうが、私のような中途半端な「元サディスト」はついつい、妥協したサディズム的快楽をマゾ奴隷の女性に与えてしまうのである。
表面的には、私がマゾ奴隷の女性に指令を与えていて、それにマゾ奴隷の女性が応えてくれるのであるから、支配関係というのは、私が上位であり、マゾ奴隷の女性が下位ということなのかもしれない。
だが、実際には「指令を求めるマゾ奴隷」という主人のために働いている奴隷は「元サディストとしてのタスクをこなす私」のほうなのだ。
マゾ奴隷の女性というのは、「サディストからの命令を待ち、その命令に従う」という形で、サディストの行動と思考を規定して制限をかけ、自分のマゾヒズムによってサディストをあやつり、支配しているのである。
サディズム的快楽がもはやそこには発生しないにも関わらず、マゾ奴隷がそこにいるということだけで、私はSMテレフォンセックスというものをプレイすることから逃れられないまま、「従順な指令者」という倒錯を演じている。
ここまで理解していて、それでもなおSMテレフォンセックスをやめられないことが、私がSMテレフォンセックスを求めてSMテレクラに常駐しているマゾ奴隷の女性の奴隷であることの証明でなくてなんだというのだろうか。
スマートフォンでSMテレクラにコールをする私には、マゾ奴隷の女性たちのための無数の指令が用意されている。それはしかし、私のアイデアではない。そこにあるのはすべてマゾ奴隷の女性たちの要求を整理したものであって、私が考えたつもりのそれは、すべて私のかわりにマゾ奴隷の女性が考えてくれたのである。
マゾ奴隷なしに私は何も考えることも行動することもできないということに気づいた。だからSMテレフォンセックスをやめられないのだろう。SMテレフォンセックスをやめた途端、壁と天井を見つめることしかできなくなるのは、マゾ奴隷の女性たちではなく、私のほうなのだ。