SMテレフォンセックスプレイヤーとしての危機について考える時間が増えた。
いままではSMテレフォンセックスはいつまでもプレイできるものだと考えていたし、SMテレフォンセックスをしている限り人生は何事もなく問題なく順分満帆に進行していくのだと無前提にそう思い込んでいた。
SMテレフォンセックスだけをプレイして生きていけるのであれば、それに越したことはない。
とくに、SMテレフォンセックス以外にはなんの楽しみもなく、SMテレフォンセックスがなくなったらやることが何もなくなってしまうような私であればなおさら。
十代から二十代の半ばくらいまでは、SMテレフォンセックス以外の趣味がまだあったと思う。いまと違って、映画を見たり音楽を聞いたりすることも普通に楽しめていたと思う。
だけれども、段々と、SMテレフォンセックス以外のことに何一つ興味が持てなくなっていった。
それまでは楽しめていたSMテレフォンセックス以外の娯楽が、自分のなかにさざなみひとつ起こさず、私の感情を一切動かさないことに気づいたとき、私はSMテレフォンセックス以外の何かを新しく自分のなかに取り入れることをすっかりやめてしまった。
だいたい、三十手前くらいのころには、生活費を稼ぐための労働と、SMテレフォンセックス以外のことは、何もしなくなっていたと思う。
「よし、SMテレフォンセックスで行くぞ、SMテレフォンセックスしか楽しめなくなったことを嘆くのではなく、SMテレフォンセックスだけは楽しめるということを肯定的に捉えていくぞ」と自分に言い聞かせ、SMテレフォンセックスを先鋭化させ過激化させていったのはこの時期。私はSMテレフォンセックス一本でいくと決めたのであった。
SMテレフォンセックス一本でいくことを決めてからのSMテレフォンセックスは、その退路が断たれていることもあってだったのか、SMテレフォンセックス以外の趣味と並行してSMテレフォンセックスをプレイしていたときよりも遥かに強烈な快楽を私に与えることになった。
その強烈な快楽が手応えとなり、私は「どうやらSMテレフォンセックスだけでいけそうだ」という確信じみた予感を抱いたのだった。
SMテレクラを利用するSMテレフォンセックスプレイヤー同士は、それぞれのSMテレフォンセックスをより快楽的なものにするために、定期的な会合を行い、新たなSMテレフォンセックスのプレイを開拓したり、使い古されたSMテレフォンセックスをアクチュアルに現在性の強いものとしてプレイするための方法などを話し合う時間を持っていた。
SMテレフォンセックスプレイヤー同士の会合は、SMテレフォンセックスをプレイするサディストや女王様とマゾ奴隷などが男女混合で参加しているため、それぞれの性癖の立場からの意見が飛び交う有意義な時間であり、勉強会であった。
SMテレフォンセックスプレイヤー同士の会合を終えたあとは、プレイするSMテレフォンセックスの快楽がより鮮明な輪郭を持っている場合がほとんどであった。
SMテレフォンセックスの勉強会ともいえる会合には十年以上顔を出している。そのなかで、初期のメンバーといえるサディストや女王様やマゾ奴隷などは、私以外にはもうほとんど残っていない。
「もうSMテレフォンセックスはプレイできそうにないんだ」といって、多くの同志が立ち去っていくのを私は見送ることしかできなかった。年齢的な問題、家庭的な問題、肉体的な問題など、様々な理由で人はSMテレフォンセックスを諦めなければならないタイミングがあるということを、私は知った。
SMテレフォンセックスプレイヤーとしての危機について考え始めたのは、ほとんどの初期メンバーが加齢とともにいなくなっていて、いつの間にか自分が最高齢のメンバーになっていたときであった。
なぜ自分だけがSMテレクラに残ることができて、SMテレフォンセックスができているのか。SMテレフォンセックスがプレイできるという「あたりまえ」が少しずつ崩壊しつつある、その足音を聞いたような感触が、プレイ中に到来することも増えてきた。
「今日は、SMテレフォンセックスをプレイしなくてもいいか」と考えて、SMテレクラにコールしかけた指をスマホから離し、そのままSMテレフォンセックスをプレイしないままに一日を終えることにも、少しずつ抵抗がなくなっていたように思う。
かつては、一日でもSMテレフォンセックスをプレイできない日があろうものならこの世の終わりであるかのように憔悴しきってしまったのに、そういった切迫感は、私のなかからはいつの間にか失われていたようだった。
惰性でSMテレフォンセックスをしているのかもしれない、ということに気づくのは、やはり、快楽が薄まったからであったかもしれない。
SもMもどちらもいけるオールラウンダーのSMテレフォンセックスプレイヤーとしてプレイ可能なあらゆるSMテレフォンセックスをプレイしてしまったということだろうか、という疑いを持つこともあった。
決定的だったのは、ドM専用のハード系のSMテレクラを利用しているときに、女王様に「どうしてもらいたいの?」と聞かれて「私は、本当はどうしてもらいたかったのだろう」と答えてしまったことだった。
回線は、私のほうからすぐに切った。SMテレフォンセックスという単語を見るだけで勃起することもあったのに、私は、SMテレフォンセックスの回線がつながっているときも勃起しなくなっている自分を発見した。
私が本当にしたかったことは、SMテレフォンセックスだったのだろうか。しかし、SMテレフォンセックスしかない、私にとってSMテレフォンセックス以外のことは意味がないのだ、と考えてやってきてしまった私は、SMテレフォンセックスをプレイする以外のことは何もできなかった。
SMテレフォンセックスをプレイする以外のことは何もできない人間が、SMテレフォンセックスをプレイできなくなったら一体どうなってしまうのだろうか。
女王様に私が答えた「私は、本当はどうしてもらいたかったのだろう」という問いは、サディストとして回線をつないだときは「私は、本当はどうしたいのだろうか」という問いに反転して、私を責め苛むことになった。
私にはSMテレフォンセックスをプレイする自由が相変わらず与えられていた。だが、私はSMテレフォンセックスをプレイする自由がありながら、SMテレフォンセックスをプレイするという行為をすることができなくなっていた。
私はSMテレフォンセックスの袋小路に迷い込んでいたのだし、見えない縄で精神を緊縛されてすっかり身動きがとれなくなっていた。
これはSMテレフォンセックスプレイヤーとしての危機であった。だがしかし、ある意味では、SMテレフォンセックスの次のステージに、というより、最終局面に進んだのかもしれなかった。
というのも、私はSMテレフォンセックスをプレイするための魂を緊縛されていて、そのまま放置されている、という状態にたえず身を置くことになったからである。
私は緊縛をとかれること、そして、放置から解放されることを待ち望んでいる。だが同時に、緊縛されていること、放置されているという現状に快楽を感じてもいて、もはやいかなる解放も望んでいないのかもしれなかった。
私の魂をがんじがらめに固く縛りあげて、そして、そのまま放置しているサディストとマゾヒストのさらに上位の存在がいったい何者なのか、いまの私にはわからない。
それはある時代やある特定の地域や環境においては、もしかすると神と呼ばれるようななにかであるのかもしれない。
私はいま、生身の肉体を持った人間として、そういった不可視の存在、上位の存在に全面的に帰依することを求められているのだろうか。