もう普通のテレフォンセックスでは満たされない、ということに気づかされたとき、これからどうやって快楽的生活を送っていけばいいのだろう、と不安にかられました。
かつてはテレフォンセックスのたびに興奮の坩堝と化していた私は、いつの間にやら、テレフォンセックスというものにマンネリを感じていたのです。
このマンネリ化と、テレフォンセックスから受け取る快楽の減退は、テレフォンセックスというものをプレイするテレフォンセックスプレイヤーすべてが一度は通る道なのかもしれませんが、当事者からすると、死活問題(たかがテレフォンセックスと思うなかれ!)なのです。
ここでSMテレフォンセックスという選択肢が私に浮上してきたのは当然のことであったといえるでしょう。
それまでは、視界に入っていながらもその言葉が認識できておらず、通り過ぎていく景色でしかなかったSMテレフォンセックスという言葉、新幹線の窓から見る看板の一つでしかなかったSMテレフォンセックスという言葉が、途端に、いまの私にとって最も重要な言葉としてひっかかりはじめたのです。
SMテレフォンセックスというものを、SMという様式美に満ちた性行為をリアルでも好んでプレイしている人たちのみに向けられた、リアルSMの代替物程度のものだろうと考え、それまでまるで視野にもいれていなかったというのは「テレフォンセックスはセックスの代替物ではない。テレフォンセックスはセックスとは別種の、それのみで独立して成立する性行為なのである」という立場をとる私としてはあまりにも迂闊であったと言わざるをえません。
「リアルでSMというものをプレイしない私にとっては、SMテレフォンセックスというものもまた、自分とはまったく関係のない領域のことなのだろう」と、はじめからSMテレフォンセックスを切り離して考えていたのは事実です。
テレフォンセックスにマンネリを感じ、SMテレフォンセックスという選択肢が存在感を増してきたときになって、私ははじめて「SMテレフォンセックスもまた、テレフォンセックスがセックスの代替物ではないように、SMの代替物ではないのではないか」と考えるようになりました。
そして、この考えは、実際にSMテレフォンセックスというものをプレイしてみて確信へと変わることになりました。私はリアルSMというものを通過することなく、SMテレフォンセックスというものをいきなり快楽的なものとして体験することができてしまったのです。
私は、自分がSであるかMであるか、という質問に答えることができません。そもそも、そのような質問自体が馬鹿らしいと考えているというのもあるのですが、なんにせよ、私は、自分はSでもないしMでもない(SでありうるしMでありうる)という立場をとることになるのではないか、とつねづね考えていました。
もちろん、そのことについて、自分が徹底的に考え抜いてきたというわけではありません。この自分はSでもないしMでもない(SでありうるしMでありうる)という立場は、SMテレフォンセックスというものをプレイすることによって、自分のなかではじめて輪郭をはっきりさせはじめた考えであるといえます。
電話をする前から自分はSである(あるいはMである)と決めこんで、対称的な性癖を持つ相手に、自分の性的嗜好を思う存分ぶつける場こそがSMテレフォンセックスという場なのだ、という考え方は、なかば正解であり、なかば間違いであるでしょう。
もちろん、そのようにして遊ぶことが可能なSMテレフォンセックスがあることは、確かです。というより、多くのSMテレフォンセックスプレイヤーは、男女問わず、そのようにして遊んでいるようにも思います。
ですが、私の場合は、SMテレフォンセックスというのは、相手との関係性のなかで、自分がSやMなどの「役割」をその都度引き受けて、相手と状況に応じて変幻自在に嗜虐と被虐を入れ替えながら、相手ののぞむような他者として振る舞うという態度こそが重要であるように思われました。
私は、女王様でありたいと考えている女性と回線がつながればその女王様によって支配されることを涎を垂らしながらみっともなく求める奴隷豚として、絶対的な支配者であるサディストによって物のように扱われたいと考えている女性と回線が繋がれば、自らが絶対的な法と化し、嗜虐を与える冷血の王として振る舞いました。
奴隷豚にせよ、支配者にせよ、それは私のなかには本来ないものです。だから、私は、それらを、完璧にうまく演じることがどうしてもできません。
たとえば、支配者として振る舞っているつもりのとき、M女の欲望と私の攻撃がズレてしまう、ということが度々起こりました。そのとき、私は、なんとかしてM女が求める支配者として振る舞えるように、軌道修正を行います。このとき、私は、支配者として振る舞いながら、M女の欲望によって支配され、行動を決定されている状態にあります。
この「支配しているものが支配対象によって支配され、支配されているものが支配者を支配する」というような信頼関係に、私は、何か、強烈な結びつきのようなものを、男女の単純な性行為では起こりえない癒着のようなものを感じ、そこに、通常のテレフォンセックスとは違う、SMテレフォンセックス特有の快楽を感じることになりました。
それは、自分の性癖を捨て去って何か別のものに変身し、その変身した自分の嗜好を演じきるという快楽であり、その演じきる行為を通して他者と交わりあい信頼しあう快楽であり、そして、その信頼を通しても決して埋まらない他者同士の溝に対する快楽でもあり、また、支配と被支配が不意に入れ替わるスリルを味わう快楽でもありました。
SMテレフォンセックスをするようになってから、私のSでもないしMでもない(SでありうるしMでありうる)という立場は、よりそのあやふやな流動性を増していくことになりました。SMテレフォンセックスをプレイすればするほどに、私は自分がSかMかという二項対立のどちらかに身をおいているということを断言することが難しくなっていったのです。
SでもないしMでもない(SでありうるしMでありうる)という立場をテレクラで繋がった女性との関係性のなかで揺らがせながら楽しむ、ということを繰り返しているうちに、私にとって、射精というものがあまり重要ではなくなってきました。
私がセックスに飽きてテレフォンセックスに移行し、それからテレフォンセックスにマンネリを感じたのは、射精というものを基準に性的快楽を考えていたからなのかもしれません。
射精というくびきから解き放たれ、他者との交流の時間によって生じる権力関係の勾配それ自体に快楽を感じるようになってからは、まったく別種の性的光景が自分のまえに展開するようになりました。
SMテレフォンセックスにおいて、必ず射精をしないというわけではありません。ですが、SMテレフォンセックスにおいて、私は射精というものを重大事としてとらえず、快楽の基準にすることはありません(こればっかりは、実際にSMテレフォンセックスをプレイしてもらわないことには、わかってもらえないことだとわかっておりますし、なんとももどかしい気持ちでいますが……)
SMテレフォンセックスを選択するということが、私にとって、新たな性の探求の開始を意味している、ということだけは確かです。