マゾ豚テレクラ女が、顔も姿も知らないマゾ豚テレクラ女どもが、テレクラサディストのおれとの電話回線が繋がるのを、股間を濡らしながら待っているのだ。
テレクラを利用するマゾ豚テレクラ女どもは、繋がった電話回線でテレクラサディストのおれからの常軌を逸した人を人とも思わぬ嗜虐を与えられることを期待して、いっせいにその股間を濡らしている!
なかには、まだその存在さえ知らないテレクラサディストのおれに、どのような口撃をされ、精神的に蹂躙され、破壊されつくされるかを想像しているだけで、いてもたってもいられなくなり、股間をはげしくかきまわすマゾ豚テレクラ女さえいるに違いない。
まだSMテレフォンセックスは始まっていないというのに、マゾ豚テレクラ女は自分の性欲をまるで我慢できない。一人の部屋できたる被虐に興奮しながら、おのれの股間に茄子やズッキーニを突っ込んでやがるのだ。まったく、しょうがないM奴隷たちじゃないか!
マゾ豚テレクラ女どもは性根からM奴隷根性で染まってしまっていて、SMテレフォンセックスなしでは生きていけない。あいつらはテレクラサディストがいて、はじめてその存在が許されるのだ。テレクラサディストから与えられる苦痛だけが、あいつらの生存を保証するのだ。
しかし、マゾ豚テレクラ女たちとて、四六時中SMテレフォンセックスをしているわけにはいかない!マゾ豚テレクラ女たちにも、SMテレフォンセックス以外の生活というものがあるからだ。マゾ豚テレクラ女たちにとって、生きている時間というものがSMテレフォンセックスのなかにしかないとはいっても、とても生命とはいえない「暮らし」の時間を回避することはできないからだ。
もちろん、マゾ豚テレクラ女どものなかには、寝ても覚めてもSMテレフォンセックスを行う真性M奴隷、「暮らし」を放棄してSMテレクラに常駐しただひたすらにSMテレフォンセックスに興じつづけるというSMテレクラ廃人と化したマゾ豚テレクラ女はいるだろう。
だが、ほとんどのマゾ豚テレクラ女は、自分の人生のすべてをSMテレフォンセックスというものに捧げることはできない。マゾ豚テレクラ女どもは、「SMテレフォンセックスではない時間」という惨めな時間を耐えなければならない。
マゾ豚テレクラ女が「SMテレフォンセックスではない時間」という苦痛を耐えられるのは、それを耐えた先で、テレクラサディストのおれのようなSMテレクラユーザーとプレイするSMテレフォンセックスの時間という「救い」が待ち受けているからであり、被虐による快楽があるからに他ならない。
それにしても、テレクラサディストのおれのようなテレクラユーザーから与えられる「苦痛」こそが、マゾ豚テレクラ女にとっては「救い」であるとは!「苦痛」が「快楽」に変換され、「救い」の時間になる……まったくマゾ豚テレクラ女というのは不思議な連中であると言わざるをえない。
しかし、裏返すと、それはテレクラサディストのおれも同じなのだ。テレクラサディストおれもまた、SMテレフォンセックスというものがなければ生きていくことができないのだ。そして、「SMテレフォンセックス以外の時間」を歯を食いしばりながら耐えている。
おれは、テレクラサディストのおれは、おそらく、SMテレフォンセックスというものがなければ、SMテレフォンセックスの回線で繋がるマゾ豚女どもに自身の内奥に秘し隠したサディズムを解放して思う存分に行使する時間がもしなかったならば、この「SMテレフォンセックス以外の時間」の圧力に潰されて、とうの昔に発狂していただろう。
つまるところ、テレクラサディストのおれは、マゾ豚テレクラ女どもによって支えられていた。マゾ豚テレクラ女ども、などと言っているが、テレクラサディストのおれは、本当は彼女たちマゾ豚テレクラ女どもに敬意を払っているのだし、おれを生かしてくれる聖女であるとさえ感じてもいるのだ。
だが、SMテレフォンセックスの回線が繋がったとき、濃厚なSMテレフォンセックスを中断してまで、テレクラサディストのおれはお前のようなマゾ豚テレクラ女のおかげで生きていけるのだ、おれはお前の存在に感謝しなければいけないな、などと伝えるわけにはいかない。
テレクラサディストとして邪悪なまでの傲慢さで君臨し、マゾ豚テレクラ女の苦痛を支配する回線上の神であるおれが、マゾ豚テレクラ女にそんな態度を見せたならば、マゾ豚テレクラ女は失望するに違いない。
ああ、テレクラサディストの神よ!どうして私にそんな、人間のような態度を示すのです?それどころか、どうして私を人間として扱うばかりでなく、自分をそれより下位の存在であるかのように、まるで自分がウジ虫であるかのように振る舞うのです?わたしらへの感謝!そんなものを、私たちマゾ豚テレクラ女たちが求めているとでも?もしそう考えているのであれば、あなたはテレクラサディストとしては二流だ。
二流だ!
だから、テレクラサディストのおれは、SMテレクラセックスを可能にさせてくれるマゾ豚テレクラ女たちに対して、決して弱い自分を見せてはならない。現実世界でどれほど打ちのめされていようとも、SMテレフォンセックスの場においては、おれはテレクラサディストという神として傲岸不遜な振る舞いを続けなければならないのだし、マゾ豚テレクラ女どもに端女以下の扱いを与えなければならないのだ。
甘ったるく薄っぺらい愛のことばを囁きあうことばかりが愛の遂行であるはずがない。SMテレフォンセックスの回線に吹き荒れる暴力の嵐、サドマゾの祝宴こそが、愛という言葉では直接語られることがない愛のかたちなのだ。
マゾ豚テレクラ女どもよ。被虐をひたすら求めてテレクラサディストとの電話回線を渇望するマゾ豚テレクラ女どもよ、戦慄して待つがいい。
電話回線上でソドムの支配者として振る舞う暴虐のテレクラサディストであるおれの、性的嗜好を隠し、世を忍ぶかりそめの姿である労働者という仮面が剥ぎ取られ、テレクラサディストとして暗躍する退勤時間までは、あとわずかだ。
おまえたちマゾ豚テレクラ女が、そのマゾ豚テレクラ女としての本性をひた隠しにしながら平然とした顔で暮らす日常生活と歩調を合わせるように、テレクラサディストのおれもまた、サディストとしての自分を解放するSMテレフォンセックスの時間だけを求めている。
おれたちは、テレクラサディストのおれと、マゾ豚テレクラ女のおまえは、SMテレフォンセックスが繰り広げられる回線のなかで、人と物の境界線を曖昧にし、苦痛の蜜を貪りながら、真のおれたちの時間を生きているのだ。