SMテレクラに登録してSMテレフォンセックスをプレイするためには、プロフィールツーショットの機能を利用し、自分ではない変態テレクラユーザーによって残されたプロフィールの録音を聞き、自分の理想にあった相手を探し、その理想を現実化するためのプレイをするのが最もよい方法である。
ランダムでつながるツーショットダイヤルなどで、思いもよらない変態と遭遇し、自分の性癖とはまるで違う相手と即興的にSMテレフォンセックスにとりくむ「乱取り」も楽しいし、SMテレフォンセックスの実力も身につくのではあるが、やはり、「乱取り」ばかりするのは少しばかり疲れるのも事実。プロフィールツーショットを利用するに越したことはない。
その日は仕事納めでいつもよりはやく業務が終わり、昼過ぎには労働から解放されることになったため、私は、SMテレフォンセックスのパートナーを探してプロフィール音源を片っ端から再生していた。
あれでもない、これでもない、と相手を一方的に吟味しながら、複数のSMテレクラをはしごし、決定的な相手が見つからないまま、とはいえこのプロフィールを聞いている時間もまた豊かではあるな、などと思いながら労働とは無縁の有意義な午後を過ごしていたのである。
結局、SMテレフォンセックスの相手は見つからず、その日はSMテレフォンセックスをプレイせずに一日を終えることになったのだが、そのなかに一つだけ、気になる録音があったので、それを思い出せる範囲で書き起こしてみようと思う次第である。それはこのような録音であった。
“言葉の外殻を破りその内側へと深く潜り込んでいくこと。ここにこそSMテレフォンセックスをプレイする目的と意義があるといえる。
SMテレフォンセックスに限定するのではなく、これはテレフォンセックス全般に言えることなのだが、SMテレフォンセックスという派生を持つテレフォンセックスの基本というのは「ある特定の状況で放たれる声である」ということである。
テレフォンセックスであれば「AとBの間でかわされる言葉」がテレフォンセックスをその特定の状況のなかに生み出し、SMテレフォンセックスであれば「SとMの間でかわされる言葉」がSMテレフォンセックスを特定の状況のなかに生成していく。
テレフォンセックスやSMテレフォンセックスをテキストとして書き直す。これは、それぞれの特定の状況でプレイされたテレフォンセックス及びSMテレフォンセックスというものから「特定の状況」を抜き去るということを意味しており、書き直されたテレフォンセックス及びSMテレフォンセックスというものは、空間的時間的な制限をなくすことになる。
そのとき、その場で対話を交わしあったAとBあるいはSとMのそれぞれがいなくなったとしても、ABSMのいずれでもないXが、時間と場所が遠く離れたどこかいつかでそれを「読む」ことができる、というのが書かれたテレフォンセックス/SMテレフォンセックスの特徴である。
声として発されたテレフォンセックス/SMテレフォンセックスと、書かれたテレフォンセックス/SMテレフォンセックスのどちらかが優れているという話ではない。特徴としてそうであるということを、私はかなり雑にまとめながら書いているにすぎない。
声として発されたテレフォンセックス/SMテレフォンセックスというのはその場限りで、その特定の状況にいるA-B,S-Mのあいだにだけ発生するものであり、AとBの別離、SとMの別離によって「声として発されたテレフォンセックス/SMテレフォンセックス」としては消滅するものである。
しかし、「声として発されたテレフォンセックス」の痕跡は消えることがなく、一人きりになったAとB、あるいは、SとMの記憶の領域に、意味連関を持った連続性のある言葉として、そのテレフォンセックス/SMテレフォンセックスは残るのである。
この痕跡としてのテレフォンセックス/SMテレフォンセックスを記述するときに「書かれたテレフォンセックス/SMテレフォンセックス」はいよいよ立ち上がってくるのであって、そしてまた、この書かれたものも痕跡なのである。
「ある特定の状況で放たれる声」としてのテレフォンセックス/SMテレフォンセックスというのを、意味のある連続性のある言葉として受け取ることができるというのは、当たり前のように行っているが、考えてみるとなかなか複雑なことをしている。
A-B-C-Dという順番でリニアに発された「いまの声」を「ABCD」という連続したセンテンスとして言葉を連結させることが、声を発することによって行うテレフォンセックス/SMテレフォンセックスでは求められる。
A-B-C-Dのうち、たとえばCが発話されているとき、AとBはそれぞれ過去に遠ざかっていて、すでにそこにはない。つぎにDがくる以上、Cもいまから過去へと流れつつある今だ。そして、Dがくるときに、すべての過去が「ABCD」という連続体として「思い出されながら」つなぎあわされることになる。
Cという言葉がどのようなコンテクストのなかに置かれているのかを理解するために、Cという言葉を「言う/聞く」人間は、すでに過ぎ去っているAとBと関連付けなければならない。つまり、Cという言葉を言い/聞きながら、AとBの過ぎ去った記憶、痕跡をたえず同時に呼び覚まし「すでに響いていない声」を内的に響かせている。
このA-B-C-Dの痕跡を、会話のなかでABCDという連続体にして把握していくテレフォンセックス/SMテレフォンセックスの過程においては、「書く」ということが行われているといえるだろう。
その意味では、すべてのテレフォンセックス/SMテレフォンセックスというのは「書かれたテレフォンセックス/SMテレフォンセックスである」ということであって、声を発してする特定の状況で行われるテレフォンセックス/SMテレフォンセックスも、その例外ではない。
「書く」ことしかできないテレフォンセックス/SMテレフォンセックスであるならば、「書く」ことによって、言葉の表面的な意味をいかに深層領域の垂直方向に多層化していくことができるか、ということを通して、言葉の変革=現実の変革をすることを避けることができない。
もちろん、テレフォンセックス/SMテレフォンセックスというものを、言葉の表面的な意味だけでする「コミュニケーション」として行うのであれば、こういった「言葉=世界」の変革というような事態は起こりえない。
だが、もし、「コミュニケーション」として使える水平的な言葉ではなく、通常のコミュニケーションの意味からははみ出てしまう深さと広がりを持った言葉として、垂直に言葉を掘り下げ、言葉の外皮、外殻を破っていこうとする場合、そのテレフォンセックス/SMテレフォンセックスというのは、言葉の変質、言葉のいる位置の表層から深層への移行に伴って、世界それ自体を書き換える営みとなるだろう。
ここに、「すべてのテレフォンセックス/SMテレフォンセックスは、書かれたテレフォンセックス/SMテレフォンセックスである」ということが絡み合い、テレフォンセックス/SMテレフォンセックスの快楽はまったく違う探求の道を歩きはじめる。
ここで、より日常のコミュニケーションのための言葉から外れていると思われるSMテレフォンセックスの目的と意義が「言葉の外殻を突き破ることにある」という冒頭に書いたことがようやくおぼろげにでもつかめるようになるのではないだろうか。
SMテレフォンセックスにおいては、Sは制度を、Mは契約関係を求め、それぞれに必要とし、また、利用しながら、「コミュニケーションにならないコミュニケーション」を成立させようとする。
そこでは、「表層的なコミュニケーション」の場で使われている言葉の「深層領域への移行による変質」であり、制度側からの深まりと広さ、契約関係の側からの深まりと広さが、それぞれ異質の背景を持つ非日常的な言葉として衝突しあい混じりあうということが起こる。
私はそのようなSMテレフォンセックスをプレイすることによって、自分自身の言葉を変革し、言葉の変革を通して世界を書き換えたいと考えている。興味があるかたは、私とSMテレフォンセックスを楽しみましょう。”
このプロフィール録音を残したSMテレフォンセックスプレイヤーとSMテレフォンセックスをしてみようかという考えが、少しばかりよぎった。だが、私はこのSMテレフォンセックスプレイヤーにコールをかける寸前でとどまった。
年の瀬、一年の疲れをとるために、もう少し気楽でステレオタイプな、表面的な戯れでしかないSMテレフォンセックスで気晴らしをしたいと考えていたこともあって、「書くことを通した世界変革としてのSMテレフォンセックス」などというヴィジョンをとても遂行できるとは思えなかったのだ。
労働ではない時間が過ぎていくのはとてもはやい。それからあれよあれよというままに日がすぎ、大晦日も元旦も三が日も終わり、いまはすでに労働を開始している。
ふと気になって、私は、少しばかり時間が余っていた休日に、SMテレクラのプロフィール録音を再生してみた。書くSMテレフォンセックスを通して世界を変革しようとしていたあのSMテレフォンセックスプレイヤーとの回線がもしつながるならば、その話をじかに聞いてみたいと思ったのだ。
だが、自分が登録しているすべてのSMテレクラのあらゆる録音を聞いても、書くSMテレフォンセックスプレイヤーが残したと思われる録音を聞くことはできなかった。
おそらくは、SMテレクラという場所であのようなメッセージを放ったところで誰にも理解されることはないということを悟り、SMテレクラという場所から撤退し、別の場所で言葉による世界の変革を試みようと考えたのであろう。
SMテレフォンセックスを通した世界変革とは一体どのような快楽を自分に与えてくれるものだったのか。言葉の外殻を破るSMテレフォンセックスでは、言葉というのはどのようなものなのか。
すでに、録音された声の主がSMテレクラからいなくなってしまった以上、それを私がSMテレフォンセックスを通してじかに教えてもらうことはできない。
だが、意志を継ぐことはできるだろう。私が?いや、私だけでなく、誰かが。誰もが。このSMテレフォンセックスプレイヤーの言うように、「録音を一方的に聞く」という形で「ある特定の状況のSとM」のあいだで起こった出来事としての言葉が、時間と空間を超えていつかだれかに届きうる書かれた言葉になったのだから。