SMテレフォンセックスを通して与えられた女王様からの罵倒の言葉を、テレクラM奴隷である私の心身の隅々にまで刻みつけること。これこそが私のSMテレフォンセックスにおける最大の快楽だ。
サドマゾ調教においては、人間というものをモノや家畜として扱うというプレイは基本である。その基本的なモノ化、家畜化プレイにおいて有効な手段とされているのが、「裸体への落書き」である。
「裸体への落書き」によって、人間の肉体というものは、生きた人間でありながら、治安の乱れた公衆便所へと変貌させられてしまう。痰を吐き捨てられ、排泄物を浴びせられ、付着した汚物をぬぐうこともできないまま、悪臭を放ちながら蛆やゴキブリの温床となる公衆便所へと。
かつて男性用の小用公衆便所は打ちっぱなしのコンクリートや、タイルでできた壁に向かって小便をはなつというものであった。サディストによって肉体に落書きが施されるとき、身体という歴史が刻印された一枚の平面は、この時代遅れで不潔な小用公衆便所のそれへと変化させられるのではないか。
もちろん、壁というかたちの公衆便所ではなく、個別に便器が用意された公衆便所としての肉体を獲得するM奴隷というものも存在するだろう。それは、女王様とM奴隷の関係性や気質、プレイの内容によって左右される。
ともかく、そこには公衆便所に似た肉体が、あるいは公衆便所にも劣るであろう最底辺のモノへと貶められた家畜の肉体がある。
実際のSMの場面であれば、極太マッキーでもって落書きされた肉体のうえに、さらに、女王様の唾や痰、大小便などがぶちまけられることもあるだろう。その女王様の行為によって、M奴隷のみじめな公衆便所的肉体は、いよいよ汚濁と侮辱の完成へと向かっていくことになるのだ。
では、これらの公衆便所的M奴隷の肉体を獲得し、その尊厳を剥奪された肉体をさらに「用途」として使用していただきサディストの汚物で上塗りされることでモノとして完成するプロセスを、SMテレフォンセックスという場所で生々しく遂行するにはどうしたらよいのか、という問題がある。
SMテレフォンセックスは、実際のSMとは違って、肉体を介したプレイというものができない仕組みになっている。それはあくまで声と言葉だけで電話回線を通して行われるSMであって、肉体的な苦痛や汚辱からは隔てられている、というのがSMテレフォンセックスである。
となると、SMテレフォンセックスにおいては、M奴隷が自分自身の人間的な肉体を、モノ化、家畜化、公衆便所化することは不可能ということになるのだろうか。
いや、そうではない。SMテレフォンセックスという声と言葉だけで行うSMにおいても、M奴隷は、女王様によって肉体を破壊され、あらゆる肯定的な価値を剥奪され、人間以下の扱いを受けることが十分にできる。
冒頭に書き記した「女王様からの罵倒の言葉を、テレクラM奴隷である私の心身の隅々にまで刻みつけること」という言葉にすべての答えが詰まっている。
この言葉は、たとえでもなく誇張でもなく、まったくその言葉どおりに理解されなければならない。SMテレフォンセックスにおいては、「女王様からの罵倒の言葉」を「心身の隅々にまで刻みつける」のだ。
どういうことか。それは、SMテレフォンセックスで受けた罵倒と、自分の肉体のうえに声と言葉で届けられた虐待を、プレイ終了後に入れ墨として彫り、消えないものとして刻みつけるということである。
SMテレフォンセックスのプレイ中は、いわば、入れ墨のための下絵をかく時間だと考えてよい。女王様によって与えられた自分の価値を貶める罵倒と侮辱の言葉を、手元のメモ帳にくまなくメモする、あるいは、リアルタイムで自分の肉体に極太マッキーでもって逐一記録していく。
それから、声や言葉によって、たとえば「おまえという人間便器にいま小便をひっかけてやったところだ」というような行為が伝えられたならば、自分の身体の上にどのようにして小便がかかったかを想像し、肉体の上に付着した汚物のスケッチをとる、または、自分の身体の上に汚物の絵をその都度ライブ・ペインティングしていく。
あとは、SMテレフォンセックスを通して与えられたメモ書きなりライブペインティングなどを用いて入れ墨を彫るだけだ。自分という肉体を一つのキャンパスとしてとらえ、そのキャンパスのうえに声と言葉によって与えられた女王様からの攻撃を可視化させるのだ。
彫師に頼むべきだろうか?いや、その必要はない。M奴隷の肉体のうえに施す入れ墨は、美しさではなく惨めさ、人の身体が人として扱われていない悲惨な末路をしめすために行われるのだから、それは失敗していればいるほどいい。
自分の手で彫られた入れ墨は、他人の眼をしかめて嫌悪感と吐き気を催す醜悪なものでなければならない。肉体という与えられたものを辱めるだけ辱めて、取り返しがつかないものにしなければならない。
それは「おもしろタトゥー」などの文脈でネチズンたちに回収されSNSで共有される中途半端なものであってはならない。他者が面白がる余地などまるでないほど悲惨に徹底的に行われなければならない。
SMテレフォンセックスを志望し、女王様によって殲滅されるためだけに生まれてきたM奴隷は、長く生きようなどと考えてはいけない。社会生活とおりあいをつけながらM奴隷であろうとするような都合の良さに身を任せてはいけない。人並みの人生などのぞんではいけない。
「女王様からの罵倒の言葉を、テレクラM奴隷である私の心身の隅々にまで刻みつけること」によって、M奴隷は生きているだけで人間社会からはじかれる存在になるのだ。このような恥辱を全身に漲らせたまま生きていくのであれば、いっそ命を絶ってしまったほうがマシだ、という状態で生きることに、マゾヒズム的な快楽を感じるのだ。
女王様からの罵倒の言葉、侮辱の言葉と、彼女によってなげつけられた大小便にまつわる言葉などが、自分の身体の表面から魂の深奥に向かって浸透していくのを、寝ても覚めても感じつづける。
一回一回のSMテレフォンセックスによって与えられた傷は、永遠に消え去ることがない。一つ一つの言葉が、声が、いつまでもマゾ的精神を刺激し、攻撃しつづける。そして、呼吸をし、命を保っているだけで、無限に射精しているかようなマゾヒスティックな快楽に襲われる!
免疫機能が低下しようと肝臓が弱まろうと肉芽がはえてこようと知ったことではない。マゾヒズムの快楽のまえで、そのような素人入れ墨の後遺症などはなんの障害にもならない。むしろ、その副作用込で快楽だ。もとより、M奴隷が人間なみに生きていることが間違いなのだから、それらのことを積極的に受け入れるべきなのだ。
SMテレフォンセックスをするたびに、身体の上には汚い言葉と図像が増えていく。女王様の口から飛び出したとき、女王様の声の美しさとともに届けられたSM的に洗練された言葉であったはずものは、無価値無能力のM奴隷の手によって再現され彫られる場において、拙く貧しく醜く汚いものへと変換させられ、真のおぞましさが皮膚のうえに永遠に定着する。
思えば、女王様の言葉は、女王様なりに一生懸命に口汚くしてくださったものだったが、M奴隷からするときれいすぎたのだ。容赦がありすぎたのだ。手心がありすぎて、優しすぎたのだ。
女王様の気遣いなり人間らしい踏み込みによって残存していたわずかなSM的な美を、M奴隷がみずからの身体にほりこむ過程で完全に葬り去る。M奴隷にはもったいない、ありがたすぎる声と言葉を、M奴隷の身の丈にあった、最低の声と言葉へと引きずり下ろし、それを痛みとともに引き受ける。
たびかさなるSMテレフォンセックスにより、私の皮膚面積も残りわずかとなってきた。もはや、人前に現れることはできないだろう。遺産とわずかな投資で得られる収入を使い切るよりも先に、私はSMテレフォンセックスをしながらこの世を去ることになるだろう。
係累もなく孤独死していく私の遺骸を発見する誰かは、快楽の真っ只中で全裸で息絶えた私の腐り始めた肉体を見て嘔吐し、二度と消えない傷を与えられるだろう。
SMテレフォンセックスの女王様によって与えられた攻撃は、私の身体を通して、私ではない誰かに対してもサディスティックな働きをみせるのだ。ああ、SMテレフォンセックスの女王様というのは、なんて素敵なサディストなのだろうか。